黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(11) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第一話 レマン湖の月 (一八一六年夏 スイス 11/17)

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階下ではクレアの歌声が続いていたが、窓の外では雲の流れが速く、今にも雷雨が襲ってきそうな不穏な気配が漂っていた。


突然、階下のクレアの歌声が止み、ざわざわとしたさざめきがこれに取って代わった。その中に甲高いシェリーの声が混ざっていた。すると、そのシェリーの声と何かを言い争っているようなメアリ-の声が階段を上り、終にバイロンの部屋のすぐ外で扉を叩く音とともにシェリーの声が聞こえた。
「閣下(ロード)、おはようございます。」
「何が、おはようございますだ。もう昼だ。」こう言いながらバイロンは扉に歩み寄ってシェリーとメアリーを招き入れた。
「ではこんにちは。雨が降りそうなので急いで飛んできました。僕、一人でウィリアムの世話をさせられるのが嫌だったんで来ました。みんなと一緒に雨の日を楽しく過ごしたいんです。メアリーはウィリアムを連れて来なかったことで僕を責めているんです。」
「もし、これから夜にかけてずっと雨が降るようだったらここに留まらなくてはいけなくなるかもしれないわ。そしたら、明日までウィリアムに会えないじゃないの。」とメアリーが言った。
「ウィリアムはエリーズが見ているから心配ないよ。」
シェリーはそう言うと窓の外を見やった。空には雲が低く垂れ込め、窓の外の木々がざわざわと騒いでいた。


「雨が降っているんじゃないのかな・・・。」こう言ってシェリーが窓の閂を外した時、襲ってきた突風が開いた窓のカーテンを部屋の中に吹き入れた。

「ほら、もう雨が降っている・・・。」
慌てて窓を閉めた後でシェリーはこう言い、濡れた額と頬を手の甲でこすった。
「ウィリアムを連れていたら、この高台の家に走ってくることができなかっただろう。僕もウィリアムもびしょ濡れになってしまっていたよ。」
シェリーがこう言うとメアリーは「朝寝坊したのがいけないのよ。」と言い返した。
一同が階下の食堂で昼食を取っている間に天候はますます悪くなっていった。
「何だか落ち着かなくて、私、昼からはイタリア語の勉強が手につかないかもしれないわ。」と、メアリーが言った。
「私も歌とピアノの練習は午前中だけで終わりにするわ。」とクレアが言った。
「君は何をするの?手ぶらで来たようだけど?」とバイロンシェリーに尋ねた。
「昨日の晩、化学の本を読み耽って疲れたから、全然違う本を読みたいんですけど・・・。」とシェリーが言った。
「ここの地下室はまだ見ていないだろうね。避暑に来た人間が毎年、読み終えた本を置いて帰るんだ。このあたりは湖の周囲だけあって、ほとんどの家では地下室には水が染み出てきて本を保存するのには向いていない。でも高台にあるこの家ではそんなこともなく、地下室で本を保存できるんだ。高価な本は普通は誰も置いて帰らないか、置いていっても誰かに取られてしまうだけだろうけれど、大衆小説や翻訳された本なんかでめぼしいものが見つかるかもしれない。」とバイロンが言い、「じゃ、食事の後で行ってみます。」とシェリーが答え、その後は全員が窓の外の風雨に耳を傾けながら黙々と食事をした。
遅い昼食が終わり、一同が居間で一息ついて窓の外の風雨に目を注いでいると、居間に入ってきたロバートがシェリーに歩みより、「高いところにある明り採り窓からの光だけでは背表紙の字をよく見ることができませんから。」と言って燭台をシェリーに手渡した。シェリーはロバートから渡された燭台を手に地下室に通じる急な階段を下りていった。しばらくの間、頑丈な石造りの家の居間に残された各人は気ままに食後のひと時を過ごした。お揃いの夏物のドレスを着たメアリーとクレアは仲良く並んで窓に顔を寄せて風が吹き荒れる外の様子を眺め、バイロンは居間に置きっぱなしになっていたフランス語の新聞などを整理した。ポリドリは安楽椅子の上に体を伸ばして座り、退屈そうにあくびをした。その時、地下室に通じる階段から鋭い叫び声が聞こえ、一同は一斉に階段室のほうを振り向いた。隣接する自分の部屋に引っ込んでいたロバートが出てきて階段室のほうへと急いだ。
ロバートと一緒に姿を表したシェリーは真っ青になって震えていた。


「どうした?」とバイロンが尋ねた。シェリーはがたがたと震えながら言った。
「図書室の中で本を探そうとしたら、部屋の隅にちらちら光る火が見えて、びっくりしたので燭台を床に落としてしまったんです。」
「困ったやつだ。本当に床の上に落としたんだろうな?床だったら石畳だからいいが、本の上に燭
台を落とされた日には、地下室が火事だ。」とバイロンが言った。
「僕、見てきます。」と言ってロバートはまた居間から出ていこうとした。
「待ちなさい。まず、もう一つ燭台が要る。それから・・・。」と言って、バイロンは書き物机に
歩み寄ると机の上の紙片になにか書き留めてロバートに手渡して言った。
「『ファウスト』は英訳、『ファンタスマゴリア』はフランス語訳だぞ。」
燭台を手にしたロバートが地下室へ降りる階段のほうに姿を消すとバイロンは誰に向かって言うのでもなく満足気に呟いた。
「外国語と英語を区別するどころか英語もろくに読めない人間に使い走りをさせるやつもいる。ロバートは英語以外は読めないけれど、ヨーロッパのほとんどの言語をどこの国の言葉か識別することができる。

(読書ルームII(12) に続く)