黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(10) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第一話 レマン湖の月 (一八一六年夏 スイス 10/17)

このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

そんな子供じみた戯言(たわごと)を大人になって唱えることが許されるとでも思っているのか?いいか、女に関する限り、君が夢だと理想だとか言っていることは幻想にすぎない。お互いに束縛し合える相手が見つからないうちに女が欲しくなったら金を出して買うんだな・・・。」
バイロンがこう言うとシェリーは目をむいて叫んだ。
「閣下(ロード)、何てことをおっしゃるんですか?アポロン神のような閣下(ロード)の口からそんな汚らわしい言葉が飛び出してくるとは心外です。」
「何がアポロン神だ。僕は人間だし、それに君が好きなギリシア神話の神だってゼウスなんか女に手を出し放題だろう。でも牛に姿を変えてものにしたエウロペヨーロッパ大陸に連れていって、その子をヨーロッパの諸民族の祖にしたりとか、責任はちゃんと取っている。責任さえとれば何をしてもいいんだ。僕らは人間だから金を払うのが責任の取り方だ・・・。」
「それじゃ、まるで女性を品物扱いしているんじゃないですか?」
「とんでもない。金で買える女は人類の歴史始まって以来ずっと存在する、女家庭教師なんかよりももっと古くから存在する職業婦人だ。そういう女のところへ行けば後腐れなく楽しめる。」
「これ以上は聞きたくありません。」
シェリーはこう言ってうつむくと両耳を手で覆った。


バイロンシェリーは黙った。ロバートが櫂を握り、無言のままボートを漕いでいた。三人は中世に建てられたチロンの要塞を目指していた。チロン城に到着するとロバートは黙ってボートを岸につけ、バイロンシェリーは無言のまま、薄暗い城の内部へと歩み、城の地下へと向かった。
「フランソワ・ボニバールiii[3]はこの城の地下牢の中に六年間も幽閉されたんだ。」とバイロンが言った。
「地下牢の床は湖の水面下だから、壁からひっきりなしに水がしみ出してくる。光も高い窓から射すだけで十分ではない。彼はここで、一緒に閉じ込められた弟たちが病気で死んでいくのを見ながらどうすることもできなかった。」
シェリーは無言だった。バイロンシェリーのほうに向き直ると言った。
「ボニバールに強い信仰心があったからこそ、六年間も耐えられたのかもしれない。シェリー、君
はどう思う?」
シェリーはやはり何も答えなかった。
「同じものがある人間にとっては束縛となり、また別の人間にとっては心のよりどころとなるん
だ。」バイロンがこう言い、バイロンシェリーは無言のままでチロン城の残りの部分の見学を終
えた。


ボートの中でバイロンシェリー、そしてロバートの三人は無言だった。バイロンとシェ
リーはチロン城で得た暗い印象を反芻していた。主人たちが無言なので櫂を取るロバートも何も言
葉を発しなかった。


湖のほとりの小さな宿場町で三人は昼食を取ることになった。食堂に入って席を占めるとバイロンはロバートに、持参している荷物の中からペンと携帯用のインキ壺、そして紙片を取り出すように言った。バイロンは渡された紙片にペンとインキでさらさらと何かを書き付けるとシェリーに見せた。


永遠の魂と桎梏なき精神よ!
地下牢の中でこそ最も明るく輝く自由よ!
自由よ、汝は心に宿る。
唯一の束縛は自由への憧れ。
光なき湿った地下牢が
自由の息子らに枷として課せられた、
その時にこそ彼らの王国は
その名を犠牲の精神と共に遍くする。
自由という言葉は吹く風全てに乗って響き渡る。
チロンよ、その地下牢は神聖で、その床は祭壇だ!
その床がボニバールの足跡を刻み、
草地のように踏みしだかれるまで
滅びることなくこの世に留まり、
この暴虐を神に知らしめんことを!
「チロンの十四行詩(ソ ネッ ト)」

 

食事を終えてボートに乗るまでの間、シェリーは何度もその紙片に書き付けられた詩句を読み返した。返された紙片をバイロンはポケットにしまい、三人はボートに乗り込んだ。今度はバイロンが櫂を取る番だった。


「僕は人間の自由を制限するものに、何でもかんでも無闇やたらと反抗したりはしない。」ボート
を漕ぎながらバイロンは言った。「しかし、人間の自由を不当に抑圧するものには対して、僕は徹
底的に反抗するんだ。」
シェリーは黙ってうなずいた。湖の上を渡る風は夏なのにひんやりとして冷たく、ボートの上で櫂を握っているバイロンだけが額に玉の汗を浮かべていた。バイロンは黙ってボートを漕いだ。が、突然後ろに座っていたロバートのほうを振り向き、「おい、櫂を取れ。」と言って握っていた櫂を後ろへ送るとバイロンはシャツを脱ぎ捨てた。シェリーがあっけにとられて見守る間にバイロンはズボンも脱ぎ捨て、下着も取り去って一糸纏わぬ姿になった。そして、「閣下(ロード)、何をなさるんです!」とシェリーが叫ぶよりも早く、バイロンは湖に飛び込んでいた。
「おい、シェリー、湖の水は冷たくて気持ちがいいぞ!」
シェリーがロバートのほうを見ると、ロバートはこんなことには慣れているとでも言わんばかりに
くすくすと笑っていた。


バイロンはそのまま、湖の中心に向かって、ボートから見えるその姿が小さくなるまで泳ぎ続けたが、やがて戻ってきてボートに這い上がろうとした。ロバートは手馴れた様子で脱ぎ捨ててあったシャツでバイロンの前を覆い、ボートの中にバイロンが落ち着いた時にはシャツの袖がバイロンの腰の周りに廻されてエプロンのように尻の上で結び目を作っていた。
シェリーは先輩詩人の逞しい上半身に目を見張った。そして体が乾いたのでバイロンが脱ぎ捨ててあった衣服を身につけ始めるのを見ると言った。


「僕は自由を賛える詩の構想を練ってきました。そして、今、それは物語詩か劇詩で、プロメテウ
スを主人公にしたものにしようと決めました。人類に恩恵をもたらしたプロメテウスがなぜ、永遠
に鎖で縛られなければならないのか、僕にはわかりません。僕はプロメテウスが鎖から解放される
様を想像して詩にしたいんです。閣下(ロード)も同じ主題で競作しませんか?」
バイロンシェリーにむかって微笑むと黙ってうなずいた。
こうして八日間のジュネーブ湖一周旅行が終わった時、共通点も相違点も多いバイロンシェリーの間には兄弟愛のような感情がはぐくまれていた。

(読書ルームII(11) に続く)

 

【注】フランソワ・ボリバールは後の自由主義に連なる中世の思想家。「チロン」は後に聞いたアメリカ人の朗読では「シャイヨン」と英仏語折衷で発音されていました。また、幡谷正雄訳註(1925年)では『シヨンの囚人』と記されています。
* *

 

【参考】