黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(7) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第一話 レマン湖の月 (一八一六年夏 スイス 7/17)

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ジュネーブのホテル英国(オ テ ル ・ ト ゙ ・ ラ ンク ゙ ル テ ー ル)の食堂でまた食事を共にする約束などするまでもなく、バイロンパーシー・ビッシュ・シェリー一行のメンバーとその後、何度も会って話す機会を得た。シェリーがバイロンに送った詩本「アラスター、孤独な魂」は先輩詩人ワーズワースの強い影響が感じられるものの完成度の高い秀作だった。シェリーは次第に自分の自由思想のことや自然科学に対する関心、とりわけ自分が無神論者であることなどを包み隠さずバイロンに語るようになった。


メアリー・ゴッドウィンは想像に違わない才女だったが、十八歳とは思えないほどの知識と読書量を持ちながらもメアリーは自分を学校に通わせなかった父を恨み、学歴がないことを恥ずかしく思っていた。父のゴッドウィンがメアリーを学校に行かせなかったのはメアリーの溢れる才能を型にはめたくなかったからなのであるが、メアリーは父の考えを十分に承知しながらも、学校に行っていれば今ごろ自分の人生の目標はもっと明確だったに違いないと考え、名門オックスフォード大学を退学処分になってから一途に理想を追求しているかのような、妻子ある駆け出しの詩人パーシー・ビッシュ・シェリーを真剣に慕っていた。


クレアとメアリーは能力や関心が異なるせいで十歳前後からは別々に教育を受けたとはいえ、四歳の時から一緒に育てられ、旅行をする時などもほとんど片時も離れることがなかった、とバイロンは聞いた。従って、二人は姉妹として睦み会っているとばかりバイロンは思っていた。しかしある時、読書に耽って夜更かしをすることが多いシェリーと身重のクレアが朝寝をし、赤ん坊の息子を雇い入れたばかりのスイス人の子守り女と共に部屋に残したメアリーがバイロンと朝食を共にすることになった。すると、ポリドリが化粧室に姿を消したほんの数分の間にメアリーは微笑しながらバイロンにこう言った。


「パーシーは単語の綴りを思い出せないことがよくあって、パーシーの原稿には私がいつでも目を通しています。」
名門イートン校からオックスフォード大学に進学しながら、古典の耽読と化学の実験とに余念がなかったパーシー・ビッシュ・シェリーは学科におとなしくついていくこともなく、終には無神論を擁護する小冊子を配布したという理由でオックスフォード大学を一年で放校になっていた。そのシェリーが綴りを正しく思い出せないのも不思議ではなかったが、メアリーは続けて真顔になると言った。


「あのね、クレアは流産したことがあるらしいの。去年の夏、クレアはスコットランドにいる母方の親戚の家に二ヶ月も滞在して、その間、私は会いに行くことを許されなかったの。帰ってきた時にはクレアは痩せて何だか元気がなかったわ。」


クレアの妊娠の事実さえなければ、三日月が冴え渡った三月上旬の寒い夜に、下僕に手の離せない用があってクレアを家まで送ることができず、家に泊まらせてそのまま陥るところに陥ってしまったことを反省する理由はバイロンには全くなかった。クレアは貴族の令嬢ではなく、自由主義者の娘として自分の才能を信じ、自立して生きていくことが必要であり、また可能であると楽天的に考えている少女だった。


流産などということは仲の良い姉妹の間では包み隠さずに話すことなのではないか、とバイロンは思ったが女同士の親密さというものがどのようなものであるか、バイロンには推し量ることはできなかった。しかしバイロンは後になって、メアリーはクレアの身持ちの悪さを語るためにこの告げ口をしたのではなく、シェリーが同席していない時にこのゴシップめいた内容が語られたことに意味があるのではないかと考え、シェリーの若々しい顔や悪戯っぽい光を帯びた瞳とクレアの子供っぽい純情さとをメアリーが告げた事実と並べて考えてみないわけにはいかなかった。また、ゴッドウィンの娘として分け隔てなく育てられながらも血のつながりが全くないメアリーとクレアの間には推し量ることのできない何か深い溝があるのかもしれなかった。


シェリーの悪戯っぽい眼差し、広い額と髭の剃り跡もほとんど目立たない愛神アムールを思わせる初々しい顔立ちと細身の体、そしてそれらにも増して、急進的な自由主義無神論、そして社会の全ての慣習や制度に向けられたシェリーの挑戦と憎悪は彼とクレアの放縦な関係を想像させるに足りた。しかも、シェリーはメアリーを愛していた。


「あの悪童がクレアと関係して彼女を孕ませ、それでもメアリーの愛情とを保ちたいがためにクレアの妊娠の責任をクレアと一緒になって私に押し付けているのでは・・・。」こういう考えがバイロンの頭を一瞬よぎったが、バイロンはやはり、陥るところに陥ってしまった自分を責めた。誰の子供であるかわからなくてもクレアの妊娠に関してはバイロン自身にも非はあった。妻に去られた寂しさと空しさを、親切心から家に泊め、夜半に寝室の扉を叩いた自分の熱烈なファンだという少女の若々しい体で紛らわせてしまったことに弁解の余地はなかった。頭が痛かった妻との別れ話の顛末として海を渡りヨーロッパ大陸を横断してスイスで知ることになったこの問題をバイロンは関わりのある全ての人間が納得できるよう、十分時間をかけて処理しようと心に決めていた。

(読書ルームII(8) に続く)