黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(28) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア  5/13)

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警官に付き添われてスカラ座の回廊を出口に向かって歩いている間も警察が用意した簡素な馬車に揺られている間も、バイロンは不安そうな表情こそ見せていなかったが終始不機嫌そうで、一言も言葉を発しなかった。警官に連れられて官舎の一室に入ると、ホブハウスが驚いたことには、部屋の中央にふてくされた表情をした医者のジョン・ポリドリが腰掛けていた。周囲には数人の警官とイギリス風の服装をした若い紳士が立っていたが、その間では三ヶ国語で罵言が飛び交っているようだった。その三ヶ国語とはイタリア語、ドイツ語、フランス語だったが、ホブハウスが唯一理解できるフランス語を話しているのはイギリス人とおぼしい立っている若い紳士で、紳士はオーストリア人の警官に向かって平身低頭しながら下手くそなフランス語で一生懸命ポリドリを弁護していた。
「フランス語とイタリア語ができるバイロンが英語でポリドリに悪態をつき、かくしてこの部屋は四ヶ国語の罵言で溢れる。」とホブハウスが思うか思わないうちにバイロンはポリドリに向かって拳を固め、英語で怒鳴っていた。
「馬鹿野郎!」
ポリドリは首をすくめた。
「馬鹿野郎!人が観劇している最中に何てことさせるんだ!おかげで今夜の楽しみが台無しになったじゃないか。」
するとつたないフランス語でオーストリア人の役人を相手に弁解していた若い紳士が脇から口をはさんだ。
「ご高名なバイロン男爵閣下でいらっしゃいますね。私はジャージー男爵の長男エドモンドxiii[4]です。どうか、この青年のためにお役人にちょっと口を聞いてやっていただけませんでしょうか?」
ジャージー卿はもみ手をしながらバイロンに頼み込んだ。バイロンはジャージー卿に向かって言った。
「一体、この騒ぎは何なんですか?人が観劇している時に人騒がせな・・・。」
「イギリス人なのに僕のイタリア語がうますぎるからスパイだと思われたんです。」とポリドリが口をはさんだ。
「いえ、ねえ、そのせいもあるでしょうけれど、パスポートに国境での入国の査証と国境管理官のサインが無いのが一番ひっかかったんです。」とジャージー卿が言った。
「イタリア語ができるというからイギリスで採用してスイスまで連れてきたが、気が利かないことと病気ばかりするせいで解雇したんです。帰りの旅費はちゃんと渡したはずなのに、どうしてこんなところをほっつき歩いているんだ?」とバイロンはジャージー卿とポリドリの顔を交互に見ながら言った。
「アルプスを歩いて越えてきたんです。そしてミラノでジャージー卿に出会って採用されました。」
とポリドリが言った。
「とにかく・・・。」とバイロンが言った。
「ジャージー卿に必要があって採用されたんだからジャージー卿に弁護してもらうんだな。僕は係わり合いになるのはごめんだ。」
こう言うとバイロンオーストリア人の警官に向かって二言三言イタリア語で何か話した後、ホブハウスに向かって言った。

「ホブハウス、行くぞ。」
「そんな・・・どうか、お慈悲を・・・閣下(ロード)のご協力なしでは彼は二十四時間にロンバルディア王国から退去を命じられてしまいます。」ジャージー卿が懇願した。
「知らんものは知らん。何を協力してほしいのかわからないが、断る。」こう言ってバイロンはホブハウスの袖をつかみ、踵を返すと肩を怒らしてびっこをひきながら部屋を出た。後では残されたジャージー卿とポリドリが何語かわからない言葉でわめき出した。
「おい、バイロン、一言くらい口を聞いてやったらどうなんだ。」とホブハウスが言った。
「口はもう聞いた。僕はこの男をイタリアでは必要としていないと言ってやった。これで三言くらいしゃべったからもう十分だ。」
ホブハウスはそれでもなお、後ろ髪を引かれる思いで扉が開け放された部屋の中でわめきたてているポリドリから目が離せず、びっこを引いて歩くバイロンにせかされて官舎を出た。ホブハウスにはわかっていた。バイロンが腹を立てているのはポリドリに観劇を邪魔されたことに加えて、イタリア人の土地であるミラノでオーストリアの官憲が幅を利かせ、いとも容易に外国人旅行者などの権利を踏みにじっている事実を見せつけられたからだった。バイロンは桟敷に戻ってバレーの残りの部分を鑑賞している間も不機嫌そうな表情を変えなかった。


バイロンの一行はミラノに三週間滞在した。観劇と絵画鑑賞の合間にバイロンとホブハウスはチェーザレ・ボルジアxiv[5]とルクレチア・ボルジア兄妹の個人書簡などを所蔵しているアンブロシアーナ図書館を訪れた。ホブハウスにはバイロンのボルジア家の人々に対する最も大きな関心が何なのか、計りかねた。バイロンにはボルジア家に関心を持つ理由がありすぎるとホブハウスは思った。ナポレオンの盛衰に絶えず関心を払ってきたバイロンが、ローマ帝国の基礎を固めたシーザーの名を個人名とするxv[6]チェーザレ・ボルジアのイタリア統一の野望に関心を持たないはずがなかった。その上、ローマ法王アレキサンドル六世を生物学的な父とするチェーザレ・ボルジアとルクレチア・ボルジア兄妹の間には通常の兄妹の関係を超える親密さがあったと言われ、またローマ法王アレキサンドル六世と娘ルクレチア・ボルジアとの関係も通常の親子を超えたものだったと言われていた。


黙々と資料を閲覧するバイロンにホブハウスは一言も質問を発しなかった。だが、三週間のミラノ滞在の最後の日、バイロンはホテルで、片時も手元から話さずに携えている姉オーガスタから贈られた聖書のあるページをホブハウスの前で開いて見せた。ホブハウスはバイロンがなぜそのページを開いて見せたのか一瞬解しかねたが、ホブハウスの顔の前にバイロンは聖書のページを近づけ、ページから指で何かをつまみ上げると言った。
「ルクレチア・ボルジアの髪の毛だ。」
ミラノを立った後、ベロナでの短期間の滞在を経て、バイロンとホブハウス、従者のフレッチャーからなる一行は十一月十日にヴェニスに到着した。
「僕のセント・ヘレナxvi[7]。」とバイロンは一行を陸路運んできた馬車からゴンドラに乗り換えた時に呟いた。晩秋の陽光を映すヴェニスの運河に「ヴェニスの商人」や「オセロ」で語られている往年の繁栄を感じることはできなかったが、ホブハウスにもバイロンにもその理由は十分すぎるほどわかっていた。ヴェニスオーストリア帝国によって課せられる重税に喘いでいた。
「水に囲まれているだけで、特に変ったものもないもの寂しい街だなあ。」とホブハウスが言った。

「でなければ、僕にとって慰めにならないよ。」とバイロンが言った。ゴンドラに揺られる二人の前をかつては華麗をきわめていたに違いない運河に面した邸宅が次々と通り過ぎていった。

(読書ルームII(29) https://kawamari7.hatenablog.jp/entry/2021/08/25/205638 に続く)

 

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[現在のグラン・カナル(大運河)は両岸の建物だけは昔のままである。]

 

【参考】

チェザーレ・ボルジア (ウィキペディア)

 

ルクレチア・ボルジア (ウィキペディア)

 

ローマ教皇アレクサンドル6世 (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB6%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)?wprov=sfti1