黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(35) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア  12/13)

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[ローマのトレヴィの泉]

 

「僕はイタリア語は苦手だから、元気になったら内容を翻訳して僕に教えてくれ。今は健康を取り戻す時だ。熱が全く出ないようになるまで、進歩(ホィッグ)党のことも王党派(ト ーリ ー)のことも忘れろよ。」ホブハウスは言ったがこう付け加えるのを忘れなかった。
「でも、話して気が楽になるのならいくらでも話せよ。韻文で作文するよりもずっと楽だろう。」
「『マンフレッド』を早くマレーに送りたくて、君に無理を言ったらこのざまで、『マンフレッド』の第三幕はまだ完成していないし、これ以上君を引き止めたくない。病気も良くなっているみたいだから、君は一人でローマに行けよ。僕は『マンフレッド』の完成を延期する以外は予定どおりに勉強を済ませて、それから君の後を追ってローマに行く。そうしよう。」
バイロンの健康にはまだ不安があったものの、バイロンにはフレッチャーという忠実な従者がつきそい、ホブハウスが側にいる必要はなかった。ホブハウスはバイロンの様子を窺いながら旅の支度を始めた。旅の支度をするホブハウスを見てバイロンはうきうきした様子で語った。「まず、タッソーだタッソーについて調べて、彼が今のヴェニスの状況を知ったらどういった感慨を持つかを想像して詩にしたい。それから、ダンテでも同じことをやるんだ。そして、マリノ・ファリエロに中世イタリアを舞台にした物語詩、カーニバルをテーマにした楽しい詩も書きたいな・・・それから、ローマを見たら、僕の理想の英雄像を固めることができるかもしれないし・・・。」

病気から回復して明るい表情を取り戻してきたバイロンを見てホブハウスは心の底から嬉しくなって思った。「イタリアに放浪してきて、バイロンはイギリスで失った以上の何かを得ようとしている。頑張れ。」


ホブハウスが出立することにした前日、イギリスから何通かの手紙が二人に届けられた。手紙に一つづつ目を通しながらバイロンが言った。「シェリーからだ。」
「季節遅れのクリスマス・プレゼントかもしれないぞ。」とホブハウスが言った。
バイロンは手紙を開け、歓声を上げた。
「クレア・クレアモントに女の子が生まれた。もう一ヶ月半も前の一月十二日だ。シェリーが早く名前を考えて知らせろと言っている。僕が名前を考えるまでは赤ん坊を『アルバ(イタリア語で「夜明け」の意味)』と呼ぶと言っている。」
「いい名前だな。」とホブハウスが言った。
「いい名前だ。でも、シェリーにクレアのことや子育てのことで面倒をかけた上に名付け親の面までされたんじゃたまらない。僕が考えているのはもっといい名前だ。イタリアに入国した時から女の子が生まれるんじゃないかという予感がしていて、女の名前を考えていた。『アレグラ(イタリア語で「幸福」の意味)』というんだ。」
「君が好きな女性の名前はみんな頭文字が A なんだな。」とホブハウスは言った。ホブハウスはバイロンの姉のオーガスタと娘のエイダのことを指してこう言ったのであるが、言った後で別れたバイロン夫人アナベラの頭文字も A だということに気が付いた。バイロンはホブハウスの指摘には構わずに言った。
シェリーがつけた名前は僕の心の夜明けを象徴しているみたいだ。でも、いつまでも夜明けでいてはいけないんだ。太陽が高く上るころまでには僕らはみんな幸せになっていなければならない。アレグラが大きくなったらシェリーに大きな恩があると言ってきかせて、そのついでに生まれてからしばらくの間はシェリーがつけた『夜明け』という名前だったと教えてやろう。きっと喜ぶだろうな。」


ホブハウスは終にヴェニスを立ってフェラーラボローニャ、ラベンナを経てアペニン山脈を越え、フィレンツェ、ピサ、シエナを見物した後にローマに到着した。ローマで長期滞在に向いた場所を探し出すとすぐにヴェニスにいるバイロンに居場所を知らせる手紙を書いた。春のイタリアを旅しながら、ホブハウスはイタリア全土に惜しみなく注ぐ柔らかな陽光がバイロンの傷ついた心と病んだ体を完全に癒してくれること、そしてバイロンがはめをはずさずに勉強と創作に励んでいることを信じていた。
バイロンは四月の半ばにローマに到着した。宿の前に止まった馬車から出てきたバイロンをホブハウスは両手を広げて迎え、二人は抱き合って再会を喜んだ。バイロンはすっかり健康を取り戻した様子で表情が生き生きと輝いていた。
「ここでは及ばずながら僕がガイド役を務めさせてもらうよ。」とホブハウスが言った。
「ホブハウス。馬車の窓から見えるローマの風景を見てなつかしく思ったのは君が迎えてくれることがわかっていたせいなのだろうか、それとも何か別の理由なのだろうか?」
「さあ、ヴェニスに到着した時の感じとどう違うのか、ゆっくり話してきかせるか詩に書いてくれ。」
「ああ、ローマ、わが母国、魂の街。心のみなし児たちを寄せ付けずにはおかない、死に絶えた幾多の帝国の母xxxi[22]。」とバイロンは口ずさんだ。
翌日から、バイロンとホブハウスはローマ帝国時代の遺跡の見学を始めた。カラカラの浴場を見た時、バイロンが言った。
「僕は人が生きた形跡をいつでも探る。そして、そこで生きた人が何を見、何を感じ、何を思ったのかを想像する。その想像が僕の詩の中核をなしているんだ。」
コロッセウムを訪れた時、バイロンの顔が曇った。ホブハウスは八年前にアルバニアを旅行した際、イスラム教徒の断罪にあった者の手が曝されている光景を凝視したバイロンの表情を思い出した。ホブハウスは心から願った。
バイロン。今の君の表情の陰りが君の内面を映したものでないといいな。八年前の卒業旅行(グランドツアー)の時のあの無邪気な明るさをどうか取り戻してくれ。」バイロンはローマ在住のデンマーク人の彫刻家ソーワルドセンに胸像製作を依頼した。ある日、すましてポーズを取るバイロンの後ろにホブハウスは近所の花屋で買った柊の冠を隠し持って忍び寄った。
「何だこれは!」
ホブハウスがバイロンの頭に柊の冠を載せるとバイロンは頭に手をやって叫んだ。
「ちくちくして痛いと思ったら柊じゃないか。僕はクリスマス・ケーキじゃないぞ・・・。」
「月桂樹の冠にしようかと思ったが、そうしたら桂冠詩人になってしまうから柊にしたんだ。」
「こんなものこうしてやる。」とバイロンは柊の冠を円盤投げの円盤のように部屋の隅に投げた。
「せっかく、買ってきたのに・・・ほら、受け取れよ。」とホブハウスは部屋の隅から冠を拾うとバイロンに投げ返した。バイロンは腕を輪投げの棒のようにしてそれを受け止めると、ホブハウスに投げ返した。
シニョーリ!ここは競技場はありません。」とソーワルドセンが下手なイタリア語でわめいた。二人は笑った。三十歳近くなったバイロンとホブハウスに学生時代や卒業旅行(グランドツアー)の時代の朗らかさが戻ってきたようで、二人は困っているソーワルドセンには構わずに腹を抱えて心から笑った。
(読書ルームII(36) に続く)

 

 

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トレヴィの泉