黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(30) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア  7/13)

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「これは呪いじゃないか・・・。バイロンのあの整った顔立ちをした頭のどこからこんなに毒に満ちた言葉が出てくるんだろう・・・。」ホブハウスは鼻歌を歌いながら本の整理をしているバイロンの整った横顔を凝視した。バイロンは持ってきた本の中から一冊を取り出すとホブハウスの前に投げ出した。
ゲーテの『ファウスト』の英訳本だ。僕のドラマツルギーに何か疑問があれば、この戯曲が解決してくれるだろう。」
ホブハウスは筆写を始めた。頼まれた翌日、昼食の後に書斎に入って筆写を始めたが、気がついたらバイロンの姿は屋敷の中にはなかった。
「ちょっと、出かけただけだろう。」とホブハウスは思い、そのまま気にも留めなかった。バイロンは夜になっても帰ってこなかった。次の日、昼近くになってバイロンはむくんだ眠そうな顔をして寝室から出てきた。このようなことが三日続き、さすがにホブハウスはバイロンに問いただしてみる気になった。
「一体、夜遅くまでどこをほっつき歩いているんだ。一人であぶないじゃないか。」
ホブハウスがこう言うとバイロンは平然として言った。
アルメニア語を習うことにしたんだ。アルメニア人の修道士のところに通っている。」
「真夜中までアルメニア語を習うのか?嘘をつけ。」
「腕っ節が強いゴンドリエを雇うことにしたからあぶなくはない。」
「質問に答えていないぞ。真夜中まで修道士と差し向かいでアルメニア語の勉強をするのか、と聞いたんだ。」ホブハウスがこう問い詰めると、バイロンは言った。
「疑うのか?疑うんだったらアルメニア語の教科書を見せてやる。」
こう言ってバイロンは居間の椅子の上に脱ぎっぱなしになっていた上着のポケットを探った。しかし、すぐに血相を変えると叫んだ。
「ない。どこにいったんだ。マリノ・ファリエロについて取材したメモも一緒だったのに・・・。」
「うっかりしてどこかに置き忘れたんだろう。そう信じたいね。運河に落としたのじゃなければ、普通のイタリア人には何の価値もないからきっと届けてくれるだろう。」
バイロンは筆写をしているホブハウスの後ろでそわそわしながら歩き回っていたが、夕方近くになるとまた外出の支度を始めた。ホブハウスは言った。
「おい、今日はアルブリッチ侯爵夫人のサロンの日じゃないよな。」
「違う。別の約束がある。」
「僕も一緒に行ってもいいか?」
「いや、君は『マンフレッド』の筆写に専念してくれ。早くしないとクリスマスまでにローマに立てないぞ。」
バイロンはこう言うといそいそとゴンドラに乗って出ていった。一人残されたホブハウスは筆写に専念し、疲れるとゲーテの「ファウスト」の英訳本を読んだり、学生時代に学んだラテン語を思い出すためにオウィディウスxx[11]の詩本に目を通したりした。
あたりがすっかり暗くなった頃、フレッチャーが書斎の扉を叩いた。
「玄関にイタリア人のお嬢さんが見えています。何を言っているのかわからないので、ちょっとお願いします。」
ホブハウスが出ていくと、玄関に乗り付けたゴンドラを待たせて、飾り気のない平民の格好をしているが可憐な中背の若い女性が立っていた。
「私はカテリーナといいます。酒屋ベンディの娘です。」と女性は言って手に持っていた紙束と本を差し出した。ホブハウスが渡された紙束をめくってみると、そこには紛れもないバイロンの筆跡で何やら書きなぐられていた。
「ありがとう(グラツィエ)。」とホブハウスが言っても娘が立ち去ろうとしないのでホブハウスは居間に戻ると自分の上着のポケットを探っていくらかの紙幣を取り出すと戻ってきて娘に心づけとして差し出した。娘は紙幣をひったくるようにして受け取ると疑り深い眼差しでホブハウスを頭のてっぺんからつま先までしげしげと眺め、それから身を翻して待たせてあったゴンドラに飛び乗って後も見ずに屋敷を後にした。
バイロンは夜遅くなっても帰ってこなかった。真夜中近くになり、ホブハウスがそろそろ寝る仕度をしようと考えていると、眠そうな表情をしたフレッチャーが書斎の扉を叩いた。
「玄関にまたイタリア人のお嬢さんが見えています。お願いします。」
ホブハウスは一瞬、さっきの酒屋の娘が心づけが足りないのが不満で戻ってきたのかと思った。しかし、玄関先に出てみると立っているのは別の女性だった。女性はしきりと手招きをしてホブハウスとフレッチャーに向かって言った。
シニョーリバイロン・・・。」
ホブハウスはそれ以上は聞き取ることができなかった。しかし、女性がしきりと手招きをし、立ち去ろうとしないので、仕方なく、フレッチャーと一緒に女性が乗ってきたゴンドラに乗った。


ホブハウスとフレッチャーを乗せたゴンドラは水路をグラン・カナルやサン・マルコ広場とは反対方向に、狭い水路で何回も向きを変えながら進んだ。「パネテリア・コグニ(コグニのパン屋xxi[12])」という看板がかかった建物の前まで来ると、ゴンドリエは入り口にゴンドラをつけた。
家の中に入ってホブハウスにはすぐに状況が飲み込めた。居間の長いすの上に泥酔したバイロンが横たわっていた。
「おい、バイロン。こんなところで一体何やっているんだ・・・。」ホブハウスが尋ねるとバイロンはイタリア語で何かつぶやいた。
「なくしたアルメニア語の教科書とメモが見つかったぞ。」
「ご苦労(グラツィエ)。」とバイロンは言ったが後に続いたイタリア語はホブハウスには聞き取れかった。ホブハウスは酒屋の娘の時と同じくパン屋の娘にも心づけを渡すべきなのかどうか迷ったが、バイロンがこの場所にいるということはパン屋の娘は何かいい目をみたのに違いないと思い、心づけのことは忘れてフレッチャーと一緒に泥酔しているバイロンをゴンドラに運び込んだ。
ゴンドラの中に落ち着くとバイロンは言った。「じゃあ、もうさすらうのはよそう。」
「わかった。わかった。君はヴェニスで落ち着きたまえ。僕は南イタリアまで旅して、それから君が落ち着いた頃にはイギリスに帰るけれどね。」とホブハウスは答えた。
「じゃあ、もうさすらうのはよそう。」とバイロンは繰り返した。「もう夜は更けた。心は愛に酔いしれ、月はまだ明るいけれど・・・。」
「おい、韻を踏んでいるじゃないか・・・。すごいな。泥酔していても詩を思いつくなんて。」
バイロンはまだぶつくさ言っていた。
「剣は鞘に収まらず、魂は胸に落ち着くことができない。」
「おいおい・・・。」とホブハウスは言った。「帰ったらすぐに寝ちまうんだろうな・・・。もったいないな・・・。ここには書くものが何もないし・・・。こいつは前の日の晩に誰と寝たかも覚えていないくらいだから、せっかくの詩句も朝までに忘れてしまうんだろうな。」
「ホブハウス・・・、余計な心配するな、家はまだか?」
「もうすぐだ。そこの角をゴンドラが曲がったら、サン・ザカリアだから・・・。いや、かなり距離があるな・・・。最初のほうをもう一度言えよ。覚えられる限り覚えるからさ・・・。

(読書ルームII(31) に続く)

 

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[夜のサン・マルコ広場]

 

【参考】

マリノ・ファリエロ (ウィキペディア)