黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(31) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア  8/13)

このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

f:id:kawamari7:20210826215720j:image

 

「心は息を止めなければならない。そして愛は眠らなければならない。もうさすらうのはよそう。もう夜は更けた。心は愛に酔いしれ、月はまだ明るいけれど・・・。夜は愛のためにあるけれど、朝がすぐに巡ってくる。月明かりの中で、さすらうのはよそう。」
家に着くとホブハウスはバイロンを長いすの上に寝かせようとしたが、バイロンはそれを拒み、ただでさえもびっこを引く足でふらつきながら書斎に入っていった。
「おい、紙とペンをよこせ・・・。」とバイロンが部屋の中央のテーブルの前に座って言ったのでホブハウスがペンをさしたインク壺、そしてありあわせの紙をテーブルの上に置くとバイロンは紙を宙に放り投げて怒鳴った。
「便箋をよこせ・・・。マレーに手紙を書くんだ・・・。」
「おい、明日にしろよ・・・。」とホブハウスが言う前にバイロンはインク壺からペンを取ろうとしてインク壺をペンごとひっくり返した。
「ああ、何やっているんだ。テーブルの上がインキだらけじゃないか。このテーブルは上等なんだぞ・・・。」
「いいから、便箋をよこせ。」
バイロンがこう言ったので、ホブハウスはバイロンが投げた紙を拾ってインクで汚れたペンの軸に巻き、数枚の便箋をバイロンの前に置いた。ホブハウスはテーブルの上のインクの溜まりにペンを浸しながら手紙を書き始めたバイロンを横目で見ながら書斎を出た。
翌日、バイロンはいつものように昼近くになっても寝ていたが、ホブハウスが書斎のテーブルの上を見ると、出版者マレー宛の広げられた手紙に昨夜の詩句がちゃんと書かれていた。
「こいつ、自分が何に詩を書いているかもわからないけれど、詩句だけは一言一句もらさずに覚えているんだ。」とホブハウスは苦笑し、ありあわせの紙にその短い詩句を写し取った。
「マンフレッド」の筆写にはホブハウスが予想していたよりも時間がかかった。理由はいろいろあった。まず、バイロンは「ちょっと、思いついた。ここはこうしたほうがいい・・・。」
などと言って原稿の内容を頻繁に変更した。それから、バイロンはしばしば「レパントの海戦xxii[13]
に関する資料がそろっているという場所を聞いたから、いい資料が揃っているのかどうかちょっと行って見てきてくれ。」などと言って、フレッチャーにはできない使い走りをホブハウスにさせた。そして、ホブハウスが気持ちを集中させて筆写をしようとする時にたまたま外にいく用がなければ、書き物机に向かっているホブハウスの後ろをうろうろと落ち着きなく歩き回った。泥酔して帰宅することも度重なった。ホブハウスは苛立ってきた。ある日、終にホブハウスはバイロンに言った。


「君は僕に筆写を頼み、使い走りまでやらせるが、自分の創作や勉強は進んでいるのか?」
「進んでいるよ。」とバイロンは涼しい顔をして言った。
「夜な夜な出ていては酔って帰ってくる。毎日昼過ぎまで寝ていて、家にいる間はうろうろ歩き回って僕の筆写のじゃまをする。いつ自分の作品を書いているんだ。」
「僕は頭の中に書いているんだ。その気になればいつでも紙に書くことができる。」
「頭の中に作品を書くのはかまわないが、僕の筆写の邪魔をしたり、使い走りをやらせたりするのはやめてくれないか。もう、すぐにクリスマスじゃないか。クリスマスまでにローマに立たせてくれる言ったのにこれじゃ無理だ。」
「使い走りって、僕は君が興味を持つだろうと思ったから『行ってみたらどうだ。』と言っただけだ。何も、命令なんかしていないよ。大体、君はローマで特大のクリスマス・ツリーを見たいのか?それとも、特大のクリスマス・ケーキを見たいのか?あるいはローマ法王のミサに出たいのか?僕らはローマ法王を通り越して直接神を信仰する新教徒じゃなかったっけ。」
「でも、ローマのクリスマスは見て損はない。」
「あのなあ。」とバイロンが言った。「口をぽかんと開けてお祭りを見たって何にもならないぜ。人間を見なけりゃ。もちろん、ローマにも人間はいる。だが、ナポレオンの失脚で変ったのは教皇領ではなくて、ここヴェニスロンバルディアだ。クリスマスとカーニバルは絶対にこの地を逃すことはできないと僕は思うんだ。」
バイロンがこう言うのを聞いてもホブハウスはバイロンが側にいてほしくてわがままを言っているとしか思えなかった。ホブハウスは言った。
「今、第三幕のまん中あたりを写している。もう少ししたら完成するから、そしたら、僕はローマに向けて立つ。お願いだから、後ろでうろうろするのは止めてくれないか。」
「僕は君のためを思ってうろうろしているんだ。君に余計な手間を取らせないようにするために・・・。実は、第三幕を全面的に変えようと思っているんだ。」
ホブハウスはこれを聞いて写しの途中だった第三幕の原稿を宙に放り投げた。
「なあ、お願いだから、第三幕を書いている間、ここにいてくれよな。」とバイロンは言った。
ホブハウスは立腹した。しかし、ローマを早く見たい気持ちはつのるものの、早くローマに行かなくてはならない理由は全くなかった。冬の一時期、地中海性気候のローマにも雨が続く憂鬱な天候が訪れるとホブハウスは聞いていた。

(読書ルームII(32) に続く)

 

 

【参考】

前エントリーからこのエントリーに続く詩はバイロンの短詩の中で Hebrew Melodies (ヘブライ節)の中の "She walks in beauty like the night of cloudless clime" と並んで有名で英語圏で愛唱される。語学的にさほど難解だとは思われないので3節12行からなる原文を掲げておく。

 

"So we'll go no more a roving

So late into the night,

Though the heart be still as loving,

And the moon be still as bright.

 

"For the sword outwears its sheath,

And the soul wears out the breast,

And the heart must pause to breathe,

And Love itself have rest.

 

"Though the night was made for loving,

And the day returns too soon,

Yet we'll go no more a roving

By the light of the moon."

 

レパントの海戦 (ウィキペディア)