黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(29) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第三話 ため息橋にて (1816年秋-1818年初、イタリア  6/13)

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 「僕はここで、どこかの屋敷の部屋を借りて住むんだ。」とバイロンが言った。
「でも、旅はするだろう。憧れのイタリアに着いてロンバルディアをちょっと見ただけじゃないか。
イタリアにはトスカナ地方のフィレンツェやピサ、そしてローマやナポリや、見ておかなければならないところが他にもまだ一杯ある。」
「僕はしばらくここに住んで落ち着いてからでも遅くはないと思っている。」とバイロンが言った。
「君一人ですぐに続きの旅に出たかったらどうぞ。でも、部屋探しくらいは手伝ってくれるだろう。」
ホテルに滞在した翌日からバイロンとホブハウスはバイロンが間借りできるような邸宅を探し始め、一方でティシャンxvii[8]やジョルジョーネxviii[9]の絵画を鑑賞した。二人は現在は博物館と図書館になっているヴェニス総督の旧邸を訪れた。地中海貿易で栄えたヴェニスは中世から長きに渡って総督の下で共和制を維持してきたが、一七九七年に、市の議会が一致して総督を廃止し、前年にローダイの戦いでヴェニスの宿敵オーストリアを破ったナポレオンに市の行政を委ねることになった。ナポレオンの失脚後、ウィーン会議によって、ヴェニス市は市民の意向に反してオーストリア支配下に入った。


「ああ、ヴェニスヴェニス、汝の大理石の壁が水に隠れる時、沈み行く殿堂の上に国家の民の泣き声がこだまする。押し寄せる海の波にも勝る嘆きの声が・・・xix[10] 。」
訪れる人もまばらな提督の旧邸の内部にたたずんでバイロンは口ずさんだ。そして、ホブハウスのほうを振り向くと言った。
「限られた人間の専制を許さない共和制が僕の理想だった。いや、今でも僕の理想だ。ヴェニスは共和制の下で最も繁栄した。でも、市議会が一致してナポレオンの傘下に入ることを決定したことからもわかるように、彼らのナポレオンに対する信頼は並み大抵のものではなかった。オーストリアに脅かされてきた彼らは、独立を犠牲にして安全とさらなる自由を獲得しようとしたんだ。ヴェニスの理想はついえてしまったのだろうか。」


バイロンとホブハウスは黙って邸内を見学した。十四世紀半ばに姦計によって斬首された総督マリノ・ファリエロの肖像画の前でバイロンは言った。
「僕はマリノ・ファリエロを主人公にした劇詩を書くかもしれない。ヴェニスのように理想的な共和制都市国家だって紆余曲折なしに成立したわけではないということを訴えたいんだ。」
二人は提督の旧邸を出た。バイロンが政治生命を断たれた後も失意のバイロンを顧みた進歩(ホィッグ)党の実力者ホランド男爵の夫人から、オーストリア帝国支配下に入ったヴェニス市の現在の総督でオーストリア貴族であるゲッツ伯爵に宛てた紹介状を携えていた。バイロンはその紹介状に頼ることをためらったが、ヴェニス到着後しばらくして、バイロンはゲッツ伯爵と面会し、ゲッツ伯爵はバイロンの部屋探しに協力すると約束した。

 

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[グラン・カナル(大運河)]

 

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[現在のサン・マルコ広場。行き交う人々の服装以外は昔と変わらない。]

 

バイロンがグラン・カナル(大運河)とサン・マルコ広場に近い商人の家に間借りすることになってからすぐのある日、昼食の席でバイロンは言った。「ホブハウス、折り入って頼みたいなことがあるんだ。つい最近書き上げたばかりの劇詩『マンフレッド』をイギリスになるべく早く送りたいんだ。だから、その前に写しを取る仕事をよかったらやってくれないか?僕が自分でやれたらやるんだが、例のマリノ・ファリエロの劇詩や『ハロルド卿の巡礼』の続編なんかの準備で忙しいんだ。写しができたら、君一人でローマに行っていいよ。僕はちょっと遅れて後から行くから。」
ホブハウスはバイロンの新たな傑作になるかもしれない作品に発表前に触れることができる嬉しさで有頂天になって快くその仕事を引き受けた。
重ねられた紙束の中から「マンフレッド」の原稿を取り出したバイロンは原稿の順番を確かめながらホブハウスに言った。
「『ハロルド卿の巡礼 第三巻』と『チロンの囚人』の筆写はメアリー・ゴッドウィンがやってくれた。彼女は作品の隅々まで味わって理解するのには筆写が一番だと言い、喜んでこの仕事を引き受けてくれた。それに彼女は字がきれいだ。間違ってもあの人形男(ドーリー)なんかにはやらせたくない仕事だった。」
こう言って渡された「マンフレッド」の原稿にホブハウスはまず目を通した。巻頭のマンフレッドの哲学的な独白に次いで現われた精霊たちの台詞にホブハウスは目を奪われた。


モンブランは山の王者
岩の玉座に座して、雲の礼服を纏い
雪の王冠を戴いて、
悠久の昔に即位した。


ホブハウスは思わず微笑んだ。「同じものを見ても、バイロンはこんなにも豪快に言葉を連ねて、見たものを人に伝えることができるんだ。」とホブハウスは思い、先を読み進んだ。


月は波の上
蛍光虫は草の上
隕石は墓の上をかすめ
沼には藁束が浮かぶ。
流星は尾を引いて流れ、
梟(ふくろう)が流星に答える。
丘の影の中
木の葉にざわめきはなく
見えない力の 徴(しるし)と共に
私の魂は汝に忍び寄る


ホブハウスは更に先を読んだ。


汝が願いかつ恐れている
死が迫り来るかの如くだが、
眠ることも死ぬこともままならない。
それが汝の運命だ。
見よ。今や呪文は効き始め、
音無き鎖が汝を縛る。
言葉は下された。さあ、滅びるがいい!

(読書ルームII(30) に続く)

 

【参考】

マリオ・ファリエロ (ウィキペディア)