黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(65) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第六話 若き貴公子(一八○五年夏 ~ 一八○九年夏  イギリス  2/18)

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十七歳になって大人並みの体格になったバイロンは夏の初めにケンブリッジ大学トリニティー・カレッジへの入学を許可されて十二歳の時から学んだハロー校を去った。執事ハンソンの次男で同学年だったハーグリーブスよりも早い大学進学だった。秋の授業が始まる前の希望に満ちた準備期間の最中、バイロンが最も関心を持ったのは大学の蔵書と大学近辺で水泳や乗馬が可能な場所だった。


ケンブリッジ大学の学生が水泳を楽しむのは近くを流れるカム川だったが、カム川は流れが緩やかでところどころに背が届かなくなるような深みがあると聞き、バイロンは勇んでカム川に泳ぎに出かけた。何度目かの泳ぎを楽しみにカム川に出かけた時、バイロンは水につかって気持ちよさそうにはしゃいでいる、自分より少し年下で十代半ばほどの一群の少年たちを見た。その少年たちはケンブリッジ大学の学生ではなく、近くのトリニティー・チャペルの少年聖歌隊に所属しているということをバイロンは知っていた。評判の高い少年聖歌隊の美しい歌声を聞くためにバイロンケンブリッジに到着した最初の日曜から欠かさずトリニティー・チャペルに足を運んでいた。聖歌隊の中でもひときわ目立つ、整った顔立ちをした金髪の少年の独唱をバイロンは聞き、川にいる聖歌隊の少年たちの中にその美しい少年を見つけて目を奪われた。


一泳ぎした後でバイロンは木の幹にもたれかけ、相変わらず歓声を上げて水遊びに興じている年のころ十二歳から十六歳ほどの聖歌隊の少年たちを見つめ、美しい声と容姿をした例の金髪の少年がその中で他の少年たちと変るところなく無心に泳ぎを楽しんでいることに満足し、今度は青い空を見上げてこれからの希望に満ちた毎日を想って嬉しいため息をついた。バイロンはふと青空から眼前の川の表に視線を落とした。金髪の少年の姿が見えなかった。青空を見上げる前の最後の瞬間に金髪の少年は他の少年達が戯れている浅瀬から深みのある川の中央に向かって体を水に乗せて滑り出そうとしていた。他の少年たちは歓声を上げて水遊びに夢中になっていた。一秒たった。二秒、三秒とバイロンが数を数えても金髪の少年の姿はどこからも現れなかった。目をそらせたわずかの間に、深みに向かって泳ぎ始めたその少年が陸に上がるとは考えられなかった。バイロンは立ち上がった。水難救助に赴く時の常識として何か道具が必要だということをバイロンは知っていた。バイロンは近くに落ちていた木の枝を拾うと無我夢中で深みを目指して水に飛び込んだ。水の中に少年の白く伸びた肢体が見えた、少年の足は水底につきそうだったが少年の足の周囲には蔓のようなものが絡まっていた。
「水底に足を近づけるのは危険だ。」バイロンはそう判断し、潜水の姿勢で手と頭を先にして少年の足元近くにたどり着くと夢中になって少年の足を水底の泥や枯れた草木の蔓などから解き放った。そして足が解き放されても水から脱することがままならない少年の頭の高さにまで浮上すると握っていた木の枝を差し出した。少年は木の枝が差し出されたことには気づいたらしかったが、もはや体を回転させて木の枝を掴むこともできなかった。そこでバイロンは少年の二の腕を掴むと両足と片手を使って水を掻いて水面に頭を出した。そして気を失って萎えている少年の両脇の下に腕を廻して胴体を抱えると自分の体が沈まないよう足で懸命に水を掻きながら少年の頭を水面に押し上げた。岸辺にはすでに大勢の学生が集まり、ある者は水際にまで進み出てバイロンに手を貸そうとし、またある者はただ固唾を飲んで成り行きを見守っていた。


気を失っている少年の体はバイロンを含む三人の若者によって岸に引きあげられた。水辺の草が少年の体や運び手となった三人の足や背中を引っ掻いたが、三人は気にする暇もなく、感覚を失っている少年ももちろん意に介さなかった。
岸辺の柔らかな草の上に少年を横たえ、バイロンは跪いて少年の体から命の徴を見出そうとした。少年の口元に耳を近づけても息の音は聞こえなかった。そこでバイロンは祈るような気持ちで少年の左胸に耳を当てた。心臓はかすかに動いていた。「生きている。」バイロンはこう叫ぶと少年の上に馬乗りになり、無我夢中でその唇に息を吹き込んだ。


「咽喉に水が詰まって息ができないのかもしれない。」と少年を岸に運ぶのを助けた学生のうちの一人が言った。そこでバイロンは体を起こし、萎えている少年の体に手をかけると激しく揺さぶった。そして再び少年と唇を重ね、今度は息を吸った。それから少年の胸を叩いた。すると少年は水を吐いて目を開けた。
「よかった。生き返った。」バイロンはこう思い、思った瞬間に目から涙が溢れ出た。「乾いた布をもってきてくれ。体を擦るんだ。」バイロンはこう叫び、周囲の者は従った。バイロンは今度は少年の後ろに回ってその体を左腕で抱きかかえると差し出されたシャツで少年の右腕と胴体の右半分を懸命に擦った。少年の救助に協力した者も乾いた衣類などを手に取ると少年の左腕、胴体の左半分や下半身を擦った。そうするうちに冷たく蒼白だった少年の体の表面に血の気が戻り、体が温まってきたのをバイロンは感じた。
「ああ、君は生きているんだ。」バイロンはこう言いながら少年の体を擦っていたシャツで頬を伝う涙を拭った。

少年の意識がはっきりした後、バイロンは周囲の者に手伝わせてまだ萎えて力がない少年に二重に衣服を着せ、留めてあった自分の馬を引いてくるように言った。固唾を飲んで見守っていた聖歌隊の少年たちの一人が聖歌隊の寮の場所をバイロンに教え、別の少年が溺れかけた少年はジョン・エーデルトンという名前だと言った。バイロンは服を身につけると馬にまたがり、周囲の者に手伝わせてぐったりしている少年を馬に乗せると少年が住んでいるチャペルの寮に向かった。少年が落馬しないように左腕で少年の体を抱え、右手だけで手綱を操りながら、バイロンはまだ恐怖から覚めやらないといった表情の少年の耳元に語りかけた。「エーデルトン。僕は君が生きていることが本当に嬉しい。」そしてバイロンはトリニティー・チャペルで独唱を聞いて美しい声の虜になったことやその歌声が永遠に失われることなく、これからも聞くことができる喜びを包み隠さず話した。
(読書ルームII(66) に続く)