黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(41) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第四話 青い空、青い海 (一八○九年夏 ~ 一八一一年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス  5/18)  

このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。マドリッドの独立門とサン・ルーカル・デ・バラメーダの写真を掲載予定です。

 

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[スペインの首都マドリッドの独立門(対ナポレオン戦勝記念門)のクリスマス直前のイルミネーション]

 

バイロンら三人と従者を伴った商人風の男は黙って階段を上り、廊下を通って一室の前で立ち止まった。扉を開けると男は従者を扉の外に立たせ、あたかも「あやしい人間が通ったら知らせろ。」とでも命令するかのように二言三言スペイン語で何か指示した。バイロンとホブハウスが部屋の中に入っても従者の男が見張りのように外に立っている部屋の扉は開け放されたままだった。


「ここに座ってください。」と男は言って二つの椅子をベッドに向かい合うように動かした。ロバートは部屋の中には入らず、扉の脇に商人の従者と向かい合って立った。バイロンらを連れてきた男は各がそれぞれの場所に落ち着いたの見ると部屋の隅に置いてあった自分の荷物の上にかがみこみ、荷物の中から二巻の巻物を取り出すとベッドの上に腰かけ、つたないフランス語で話し始めた。


「何があるかわかりませんから注意するにこしたことはありません。セビリアだって、今は抵抗軍(フンタ)とイギリス軍の軍人で溢れかえっていますが、帰り道ではナポレオンの兵士で溢れているかもしれませんからね。みなさんはイギリス人だから南下して船に乗る片道の旅行中でしょう。私はサラトガxxxviii[7]に住む商人です。アントニオと呼んでください。小麦やいろんな農産物の取引をする商人のうちに奉公に上がり、外国語と貿易の知識を身につけ、主人が死んでからは奥さんから全てをまかされています。でも、それは重要なことではありません。これを見てください。」
こう言って男は二つの巻物のうち一つを広げてみせた。巻物は銅版で印刷された版画絵だった。バイロンとホブハウスは顔を見合わせた。
マドリッドの市民(シ ト ワ イ ヤ ンです。この絵は市民が戦っている様子を描いているんです。相手はナポレオン軍のエジプト人傭兵・・・。ほら、ここにフランス兵の死骸が・・・。」
男はこう言って画面の左下にうずくまっている、たすき掛けのフランス軍の制服を着た人物を指差すと説明を続けた。
マドリッドの市民はナポレオンが味方だと信じていました。でも、裏切られたんです。われわれはスペイン語を話さない新しい国王なんていりません。ジョゼフxxxix[8]をスペインの国王にするなんて、フランスによる侵略です。市民は戦ったんです。将軍も司令官もいませんでした。戦略も何もない白兵戦です。武器は日ごろ使っている台所の包丁や棍棒・・・みんなフランス兵を見ると襲いかかりました。そして、次の絵を見てください。」
男はこう言うともう一つの巻物を広げた。巻物の絵は処刑の場面を描いたものだった。
「こうして大勢のマドリッド市民が制服を着たナポレオンの兵士たちによって殺されたんです。よく見てください。手を広げて立っている男の手のひらを・・・点が見えるでしょう。イエス・キリストが磔にされた時に釘を打たれたのと同じ位置です。彼ら市民は罪もないのに殺されたんです。
彼らはナポレオン・ボナパルトの真の意図を世の中に知らせるために死んでいったんです。」
バイロンとホブハウスの後ろにはいつしか従者の男が立っていた。男の眼には涙が浮かんでいた。版画を広げている男は一旦顔を上げて従者を見上げるとバイロンとホブハウスの顔を見つめなおして言った。
「この男は画家の召使いでリカルドといいます。去年の五月三日の日に彼はフランス軍による市民虐殺の光景を見たんです。反乱があった日には画家が使用人たちに外出を禁じました。でなければ、この男も戦って死んでいたかもしれません。実際、この男の知り合いの中にも五月二日か三日に死んだ者がいます。マドリッドだけではありません。私もサラトガでナポレオン軍の暴虐を目の当たりにしました。」
バイロンとホブハウスはしばらくの間無言だったが、ようやくバイロンが男に尋ねた。
「それで、あなたはこの二枚の版画絵を持ってどうなさるおつもりですか?」
「カディツを通ってサン・ルーカル・デ・バラメーダに行きます。この版画を作製した画家は以前にこの地方に旅行した時に突然、大病に襲われてカディツに何ヶ月も滞在して療養しなければなりませんでした。画家を知る人にこの版画を見せた後でサン・ルーカル・デ・バラメーダのある貴族の別荘に行きます。画家が以前そこで世話になって、奥方の美しい肖像画を何枚も画きました。リカルドと一緒に来たのはリカルドならあそこの人々に顔を知られているからです。私は亡くなった主人が画家の親友だったのでこの役目を引き受けました。サン・ルーカル・デ・バラメーダの貴族の家ならこの版画を安全に置いておくことができます。もちろん、帰りにはカディツとジブラルタルで商談を取り付けますがね・・・。」
「その画家はこの版画が人々を奮い立たせると考えているんでしょうか?」とホブハウスが尋ねた。
「ある程度はね。でも目的は別にあります。」と男は答えた。
「われわれスペイン人はもう、十分奮い立っています。これらの絵は今のこの機会のように、真実を知らせるのに役だっています。それから、もう一つ問題なのは、スペインの富裕層の間で圧倒的な人気のあるこの画家が今はジョゼフやその家族の肖像画を描いているということなんです。いくら愛国者だって、妻と五人の子供を養っていくためにはしかたがないでしょう。彼は宮廷画家でしたが、退位させられた本来のスペイン王とその一族から注文が来るわけはなし、貴族や金持ちも今は肖像画を描いてもらうためにのんびり座っているような気分ではありません。そのうちにナポレオンが撤退したらこの版画を元にしてこの三倍くらいの大きさの油絵を描くんだと彼は私に言いました。何もかもうまく行ったら、また宮廷画家に帰り咲いて、マドリッド市民の健闘と殉死を称えるためにこの二枚の版画を元にした大きな油絵を王宮の正面玄関に掲げてもらいたい、きっと何もかもうまくいくに違いない、と彼は言っています。」
バイロンは扉の外に立っているロバートを招き入れて、絵を指差しながら今しがた商人が語ったことを英語で説明してきかせた。バイロンとホブハウスは商人とその従者に礼を述べると旅の前途を祝福して別れた。翌朝、旅慣れた商人は夜明けと同時に出立したのか、二人の姿を再び宿で見ることはなかった。

(読書ルームII(42) に続く)

 

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[セビリアからさらに南下したシェリー酒の産地で広大な鳥獣保護区に隣接するサン・ルーカル・デ・バラメーダの一風景]

 

【参考】

サラトガ (ハテナ)

 

ジョゼフ →   ジョゼフ・ボナパルトはナポレオンの兄 (ウィキペディア)

 

フランシスコ・デ・ゴヤ (ウィキペディア)

 

フランシスコ・デ・ゴヤ (ハテナ)

 

【関連するエントリー】

かわまりの映画ルーム(16)  宮廷画家ゴヤは見た 〜 時代の肖像 8点

 

【独り言】

西洋絵画やスペインに詳しい人なら感づくでしょうが、ここで登場するスペインの商人(の代理人)はスペインの巨匠画家フランシスコ・ゴヤの幼馴染で成人してからも親交の熱かったサラトガの商人の番頭として創作しています。バイロンが商人やその番頭と出会った可能性などはほぼゼロに等しく、一連の挿話は全くのフィクションであるが、この時期にこの地域を旅行したことによってバイロンに強烈な民族意識、それも自らが属する民族グループではなく他文化や他言語を拠り所にする民族に対する尊敬や道場の念が芽生えたことは間違いない。その民族意識バイロンが崇拝していたナポレオンが振り翳した自由・平等・博愛といった一見不変的に尊重されるべき価値観と秤にかけてもさらに尊重されるべきものとしてバイロンの胸中に植え付けられたようです。