黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(42) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第四話 青い空、青い海 (一八○九年夏 ~ 一八一一年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス  6/18)

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馬車を進ませるバイロンら一行の周囲には昨日と同じく見渡す限りの向日葵(ひまわり)畑が広がっていた。
「この向日葵(ひまわり)畑が戦いの血で真っ赤に染まることがあるのだろうか?」とホブハウスが言った。バイロンは黙ったままただった。ホブハウスはさらに言った。
「僕らにはスペイン人の考えていることがわかっていなかった。ナポレオンの考えはわかっていたつもりだったが、結局それもわかっていなかったのかもしれない。」
バイロンがようやく口を開いた。
「僕らにはスペイン人が奇妙に思えることがあるがスペイン人には僕らイギリス人が奇妙に見えるんだろうな?特に僕らのようなイギリス進歩(ホイッグ)党の人間は・・・。」
「どこが奇妙なんだ?」
「ほら、スチュアート朝の血統がアン女王で途絶えた時にドイツから新しい国王を向えることでイギリス人の意見が一致しただろう。それから後も、現在のジョージ三世に至るまでずっと、国王に流暢な英語をしゃべられたら困るとでもいうのか、ドイツ人女性を連れてきては王妃にしてきたじゃないか。立役者はいつでも議会の進歩(ホイッグ)党だった。」
「そう言えば奇妙な話しだ。アントニオは『スペイン語がしゃべれない国王なんかいらない。』と言った。そのほうが自然だな。」とホブハウスは答えた。
三人は黙って馬車に揺られた。その日の午後、延々と続いていた向日葵(ひまわり)畑がごつごつした岩だらけの荒地に変った。しばらくして進行方向に向かって座っていたロバートが馬車の外を指差した。
「あれは?」
ロバートが指差した方向を確認しようとバイロンは立ち上がって窓から身を乗り出した。
「海だ!とうとう海まで来たんだ。カディツはもうすぐだ!」
バイロンは大声を上げ、ロバートが「やった!」と歓声を上げた。
陽光の下で輝く地中海の青い海と鴎の鳴き声にロバートが陶然となって馬車の窓ぎわに顔を寄せている間、バイロンは海の見える窓の反対側の座席に腰かけていたホブハウスに顔を近づけて言った。
「イギリスを立ってからというもの、僕はずっと詩の構想を練ってきた。今度の作品はこの前の『イングランドの詩人とスコットランドの批評家』のように斜に構えた作品じゃない。僕の気持ちをもっと素直に歌うんだ。しかも最初の詩集のように幼い感情を連ねたものではない。物語詩だ。僕の分身・・・もう名前は考えてある。ハロルドというんだが、そのハロルドという若い男が故国での生活に飽きて逃避旅行をする。そして外国でいろんな経験をして成長していくという内容だ。ハロルドは戦争に出逢うこともあるし、異国の美しい娘たちが登場することもある。」
「でも、僕らはこれから先、もっといろんなことに出逢うんだろうな・・・。」
「これから何があるのか僕にも皆目わからない。物語詩の始めのほうはもう出来ていて頭の中で何度も推敲を重ねて書き留めた部分もあるんだが、僕もハロルドもこれから本当の冒険に出逢うような気がする。」
馬車がゆっくりとカディツの市街に入って行った時、内陸のセビリアの街には決してない潮の匂いに干草と花の匂いが混ざっている、とホブハウスは感じた。
「美しいのは気高いセビリア。強さと富と過去の栄光を誇るのも当然。でも、海岸線に現われたカディツには、もっと甘美で気さくな褒め言葉が似合うxl[9]。」
バイロンは口づさんだ。
「おい、韻を踏んでいるじゃないか・・・。カディツに来るなり詩ができてしまうなんてすごいな・・・。」
ホブハウスがこう言うとバイロンは「イギリスを立ってから僕の頭に浮かんだ詩句には書き留めたものも頭の中にだけあるものもあるが、戦争のこととスペイン民衆のことはまだ詩句にもならずに僕の頭の中でものすごい渦を巻いてぐるぐる回っているんだ。せめて、この美しい町では戦争の新しい局面なんか聞かされることなく静かに考えをまとめたいものだ。」と答えた。

 

馬車はゆっくり駅舎に入っていった。駅舎に停車してロバートが荷物を下ろし、バイロンとホブハウスの二人が駅舎の外を窺っている時、後ろから立派な身なりをした紳士が英語で話しかけてきた。
バイロン男爵とその連れの方ですね。私はウェルズリー伯爵リチャード・コリーの使いの者です。ウェルズリー伯爵はつい最近ここの駐在公使に任命されました。」
バイロンとホブハウスは黙って顔を見合わせた。お互いの顔に「ここでもゆっくりと詩作に耽ることは無理かもしれないな。」という多少の諦めの表情があった。しかも、声をかけてきた主が耳に親しいウェルズリー伯爵という人物であると聞いて二人は身を縮めないわけにはいかなかった。バイロンが言った。
「私がバイロン男爵です。ところでどうしてわれわれがここに来るのがわかったのですか?」バイロンが丁寧にこう質問すると男は答えた。
「抵抗軍(フンタ)とイギリス軍の連合本部があるセビリアからいらっしゃったんでしょう。ウェルズリー伯爵が公使に任命されてからというもの、セビリアとこことの間ではほとんど毎日、時には日に二度、馬を飛ばしての使者のやりとりがあります。ジブラルタル沖で巡航しているイギリス海軍に何か要
請する必要が生じた場合、すぐにその体制を取れるようにすることが目的ですが、それ以上にウェルズリー伯爵は実の兄の戦況を身内として非常に気にかけているのです。」
バイロンとホブハウスは互いの顔を見て「やはりそうか・・・。」という意味の目くばせをした。
男は続けた。
「ウェルズリー将軍はもうマドリッドのすぐ近くにまで迫っています。ナポレオン軍とは一発触発の状況で、ここ二、三日が山場らしいのでウェルズリー伯爵も気が気ではないはずなのですが、みなさんのお相手は十分になさりたいという意向です。兄の勝利を信じていらっしゃいますし、そのほうが気が紛れます。」

(読書ルームII(43) に続く)

 

【参考】

カディス (ウィキペディア)

 

スチュアート朝 (ウィキペディア)

 

アン女王 (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E5%A5%B3%E7%8E%8B)?wprov=sfti1 

 

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【独り言】

バイロンの初期の傑作で正に保守的なイギリス上流階級や知識人層の中で一世を風靡した感のある「ハロルド郷の巡礼」はこのようにしてバイロンの頭の中に芽生え、その構想と韻律が練られたのです。同作品は4巻から成り、第一巻はイギリス出立からポルトガルとスペインの旅で見聞した両国の風土と人々の気質を歌い上げ、第二巻では当時トルコ帝国の傘下に入っていたギリシアの古今を詩文化してここまでの出版はバイロンをイギリス文壇の寵児にした。深遠な感慨と思考を含むヨーロッパ大陸紀行である第三巻の執筆動機が本作品の第一話で、イタリア紀行の第四巻については第三話で描いたつもりであるが、全巻を通じて感じられるロマンティシズムが語るのは人間の情熱の礼賛ではないだろうか。民族自決であれ、自由・平等・博愛の具現化であれ、はたまたパーシー・ビッシュ・シェリーの科学技術に対する熱意であれ、その核となるのはそれらに携わる人々の熱い心、すなわち情熱なのです。