黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(49) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第四話 青い空、青い海 (一八○九年夏 ~ 一八一一年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス  13/18)

このブログの内容全ての著作権はかわまりに帰属します。

 

翌日からバイロンは「ハロルド卿の巡礼」の執筆に精を出し、ホブハウスは考古趣味を発揮してアテネ市内にあるギリシア時代の遺跡の形状を視察して記録したりして過ごした。二人でペルシア戦争の古戦場であるマラトンサラミス、その他の遺跡などを見学することもあったが、二人ともさらなる東方への憧れだけはたはり押えきれず、そのような日を過ごしながら領事などのつてを頼りに東方行きの船を探した。


バイロンとホブハウスの願いがかない、三月五日に一行は一本マストの軍艦パイレーズ号に乗ってアテネを立ち、小アジアイズミールに向うことになった。アテネの港を出る時にバイロンはしみじみと言った。
「マクリの娘たちは本当に可愛かったな。」
「じゃあ、どうして協力してやらなかったんだ。」
「それを言うなよ。あの娘たちはデルファイの巫女みたいに無垢だから美しいんだ。」こう言うとバイロンは作ったばかりの自分の詩を口ずさんだ。
アテネの乙女よ、別れる前に、私の心を返しておくれ。私の心は私の胸から出て行ってしまった。いや、私の心をとっておいてくれ。もっともっと私から奪ってくれ。私が去って行く前に、私の誓いを聞いておくれ。」そしてバイロンはホブハウスのほうに向き直り、真顔になると言った。
「これは三つか四つの 節(スタンザ)からなる感傷的な歌謡調の詩になるだろう。僕はカディツの娘たちを読んだ同じような歌謡調の詩も作った。これらの詩をどうやって『ハロルド卿の巡礼』の中に入れようか、スペンサー風にしようかどうしようか、前後の 節(スタンザ)の内容をどうしようかなどと悩んだ。でも、今ではきっぱりとこの二つは『ハロルド卿の巡礼』の中には入れないでおこうと決めている。」
「それは、またなぜ・・・。」
「僕は甘美な詩を書きたくてこの二つの詩を書いた。僕の試みが成功してこの二つの詩が甘美にしあがっているならば、この二つの詩は『ハロルド卿の巡礼』にはふさわしくないというのが僕の結論だ。スペイン人もギリシア人もそれぞれに苦しんでいる。僕は『ハロルド卿の巡礼』で彼らの悲痛な叫びを表現したい。だから僕はこの二つの詩を他の部分と矛盾ないように『ハロルド卿の巡礼』に入れることができないんだ。」


パイレーズ号の船内で二人は船医で博物学者としても名高いフランシス・ダーウィンxlix[18]と出会い、イギリス貴族であるエルギン卿がギリシアの美術品や神殿の大理石の柱などをイギリスに送ることの是非をめぐる議論が再燃した。ホブハウスとダーウィンが保存や文化の伝播などを理由にエルギン卿を支持したのに対し、バイロンは頑なに「ギリシア人の財産はギリシア人が管理すべきだ。」という意見に固執した。


順風に恵まれ、二人にとっては初めての「トルコ本土」の地、国際都市であるイズミール、イギリス人にはスマーナと呼ばれている港湾都市に到着し、バイロンとホブハウスは領事の歓待を受け、市内の見学を終えた後にすぐにでもコンスタンチノープルに立ちたいと考えていたが、思わぬ出来事にイズミールに留められることになった。イズミールに到着してすぐに体の不調と歯の痛みを訴えたホブハウスが高熱を出した。


「見たか。ミネルバl[19]の呪いだ。軍事力と経済力に任せて人の国の文化遺産を勝手に持ち帰るエルギンの肩を持ったせいだ。ほら、ほら、ほら・・・ホブハウス君。君は弾丸が雨あられと降り注ぐ中で耳に火傷を負っただけで生還したじゃないか、虫歯をこじらせた程度じゃ死なないよな、ほら、元気出せ・・・。」


必死になって歯の痛みをこらえるホブハウスの目の前でバイロンはホブハウスを元気づけようとひょうきんな動作を交えて喋りまくったがホブハウスは痛みが納まるまでバイロンを無視することにした。
ホブハウスの歯痛は治まらないものの、熱と下痢が治まった四月十一日に一行はイギリスの軍艦サルセット号に便乗してコンスタンチノープルへと向かった。この船旅でも予期しない出来事が起きた。それは、トルコ政府がサルセット号のダーダネス海峡通過を許可しなかったことだった。健康が不安定なホブハウスとは異なり、バイロンは活動を怠らなかった。バイロンギリシアの連合軍に落とされた都市国家トロイがあったと伝えられるアジア側のこの地で平原や丘陵地帯をくまなく散策し、ホメロスの「イリアース」の雰囲気を満喫した。五月三日、バイロンはサルセット号に乗り組んでいた海軍軍人とヘルスポイントと呼ばれる海峡をアジア側のアビドスからヨーロッパ側のセストスまで泳いで渡った。直線距離は二マイルながら強い潮の流れにのせいで二倍の距離を泳ぐに等しい時間と体力を要するこの競泳で、軍人がバイロンよりも五分速く向こう岸にたどりついた。バイロンは五分の差で破れたことを口惜しがったが、海峡横断の快挙に晴れ晴れとした表情だった。


サルセット号の進行はさらに遅れ、バイロンにトロイ戦争やギリシアに対する想いを暖め、「ハロルド卿の巡礼」を書き進める十分な時間を与えて終に五月十三日にコンスタンチノープルに到着した。到着するや否や、ホブハウスは領事の紹介によってスルタンお抱えの歯医者の元に駆けつけた。歯医者からの帰り道でホブハウスと歩きながらバイロンはバザールの珍しい品々や異国情緒に歓声を上げ、顔をしかめ頬を押えながら時折歯茎から出る血を吐き捨てるホブハウスを見てまたからかった。「アラーの御名において汝の歯を抜く、と歯医者は言ったか?」
「頼むから黙っていてくれ。今、痛い盛りなんだ。」とホブハウスは文句を言ったが高熱まで伴った不健康の元凶とやっと訣別でき、気分はバイロンと同じく晴れ晴れとしていた。しかし荒れ果てた墓地の側を通りすぎた時、バイロンは顔を曇らせ、墓地の中の異様な光景を指差すと顔をそむけた。
(読書ルームII(50) に続く)

 

【参考】

フランシス・ダーウィン  (1786年6月17日 – 1859年11月6日)は進化論で有名なチャールズ・ダーウィン (1809年2月12日 – 1882年4月19日) の伯父。

 

かわまりの映画ルーム(104) インフェルノ 〜 目眩(めくるめ)く預知悪夢 7点 】

の映画評とDVDなどもご覧ください。映画作品のエンドクレジット近くに現代のイスタンブールの映像が満載です。

 

イズミール (ハテナ)