黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(104) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 7/17)

 

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[上はフィレンツェのアルノ川にかかるポンテ・ヴェッキオ(古橋)。ウィキペディアなどによると、ローマから北進した古代ローマ人がこのアルノ川の川岸に咲き乱れる花々を望見して花の女神フローラ(Flōra)の土地としてフローレンティア (Flōrentia)と名付けたのが都市名の起源という。現在イタリア語では「花」はfiore (フィオーレ)である。なお、交通が発達した現在ではピサとフィレンツェは共通の港レノヴォを擁する双子の観光都市である。]

 

二ヶ月にわたる滞在の期間中、シェリーはバイロンとの昔と変らない親しい文学談義やラベンナ市内外の散策を楽しんだが、バイロンによるキーツの攻撃とアレグラの件に関しては釈然としない思いを抱きながら去っていった。しかし、ピサに戻ってから間もなく、シェリーはバイロンの偽らざる気持ちを告白するような手紙を受け取った。
「ラベンナの屋敷を引き払ってピサに引っ越す。」
バイロンは同じ内容の手紙をフィレンツェにいるテレサにも送った。バイロンシェリー、テレサ、そしてガンバ伯爵父子の近くに住みたかった。ガンバ一族のいるフィレンツェとラベンナはアペニン山脈によって隔てられているが、フィレンツェとピサは同じトスカナ平原に位置し、たった四十マイル、馬車で一日しかかからない距離しか離れていなかった。そして、もしガンバ一家とシェリー一家の両方と同じ街で暮らす幸せが可能ならば、イギリスからの送金に頼っているシェリー一家ではなくガンバ一家が所帯をあげて移動すべきだった。


修道院に入ったアレグラからは父バイロンの愛情を確かめるかのようにかわいい手になるイタリア語の手紙が届いた。「パパ、市場(マルカト)に連れて行ってください。」とアレグラは訴えていた。バイロンはアレグラを一緒に連れて行きたかった。しかし、ガンバ父子の追放の直後にオーストリアから嫌がらせを受け、味方のカルボナリからも完全に信頼されていないかもしれない自分がアレグラを連れ出せば、足手まといになるだけではなく、両方の身に危険さえ伴うかもしれないとバイロンは考え、とりあえず、一人でピサに移り、ピサの家が落ち着き、アレグラを預けなおす良い修道院が見つかったら誰か信頼できる人間に頼んで連れてきてもらうしかない、とバイロンは考えた。


屋敷に飼っている動物たちに関してはバイロンの代わりに愛情を注いで面倒を見てくれる者を探し出さなければならなかった。しかし、飼い主が創作と政治運動にのめり込んで世話を動物に無関心な使用人に任せるようになってから、ヴェニスから大切に連れてきた動物たちは毛並みのつやを失い、中には足に怪我をして歩行が困難になっている動物もいた。バイロンには動物たちのことを考える時間と心の余裕がなかった。バイロンの元にバイロンが憎む湖畔派の詩人でいわば王室お抱えの桂冠詩人となったロバート・サウジーがジョージ三世の死を悼んで書いた「ある審判の幻影」が届いていた。バイロンは嫌いだったジョージ三世を悼むその詩に対抗するため、長詩「決定版、審判の幻影xciii[13] 」の構想を練っていた。バイロンはどうしてもその詩をラベンナにいる間に完成し、本格的な冬になる前に自分だけでもアペニン山脈を越えて引っ越すつもりでいた。


シェリーの訪問から三ヶ月近く後の十月下旬になってバイロンはやっと引越しの手はずを整え、ボローニャフィレンツェを経由してピサに落ち着いた。フィレンツェで再会したガンバ父子とテレサもなるべく早くピサに引っ越すことを約束した。


ピサに落ち着き、バイロンシェリーを含むイギリス人のサークルともイタリア人上流階級のサークルとも良い関係を保っていくことができると確信したが、イタリア統一と独立に対する信念を曲げるはずのないピエトロ・ガンバが何を考えているのか、バイロンには全く検討がつかなかった。バイロンは一方ではアレグラと一緒に暮らしたいと思い、また一方ではラベンナで経験したような血なまぐさい事件に巻き込まれたりした場合を考え、アレグラをピサの修道院に入れたいとも思い、踏ん切りがつかなかった。

 

一八二二年の三月の下旬、トスカナ地方は春たけなわだった。バイロン、ガンバ姉弟シェリーの一家、それにシェリーの知人で元海軍軍人のジョン・ヘイ総督と元海賊だったという噂の男トレローニーを加えたメンバーでのピクニックの催しがあった。前年のクリスマス以来、バイロンシェリー家、ガンバ家は親しく交流していたが、今回は元軍人が加わるとあって、射撃場に近接した見晴らしのよい草原がピクニックの場所として選ばれた。いつもの顔ぶれの中で参加していないのは年老いた父ガンバ伯爵だった。クレア・クレアモントはフィレンツェで住み込みの家庭教師として働いていて、もはやシェリー家の一員ではなかった。ジュネーブで過ごした夏にイタリア語の手ほどきを受けたものの、子育てに追われてイタリア語に磨きをかけることができなかったメアリーは恋人バイロンの作品を原文で読みたいと思っているテレサといつでも席を同じくしていた。


なごやかな雰囲気のうちに男たちによる射撃の腕比べと草上での昼食を終え、帰りの道すがら、馬に乗った男たちの間ではトレローニーが自家用ヨットでの航海の楽しさについて語った。バイロンは軍隊に憧れているピエトロにイギリスの軍人たちが英語で話す内容をイタリア語に翻訳して聞かせた。メアリーとテレサ、そして赤ん坊のパーシー・フローレンスは、男性たちの馬の前を走るガンバ家の馬車の中にいた。馬車の中ではメアリーとテレサが交互に英語とイタリア語の詩を暗唱したり、場所の外を通り過ぎる景色から赤ん坊に言葉を覚えさせようとしていた。


ピサの町の東門近くで、バイロンシェリーの共通の知り合いでアイルランド出身の知識人ターフが馬に乗って偶然通りかかり、歓談する騎手たちの列に加わった。その後しばらくして突然、一人の騎手が馬の列を追い抜き、ガンバ家の馬車と後ろに続く騎馬の集団の先頭を走っていたターフとシェリーの間に割り込んだ。ターフの馬が驚いて後足で立ち上がった。男がオーストリアの正規軍の制服を身につけていたため、バイロンとピエトロは血相を変えた。バイロンが止めるよりも早く、ピエトロは馬の歩調を速め、軍服を来た男の馬に近寄ると、いきなり男の胸を鞭で打った。男はサーベルを抜くと勢いよく振り上げてピエトロを殴ろうとしたが、振り上げたサーベルが斜め後ろにいたシェリーの頭に当たり、シェリーは落馬して気を失った。

(読書ルーム(105)に続く)

 

 

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[ピサとフィレンツェが共有する港町レノヴォの風景。観光客、特にクルーズ船の利用者が多いせいか人口の割には商店やレストランが多く、バラエティに富むような…。下のような日本食レストランもありました。バイロンシェリーが購入したボートを泊めたのもこの港だったかもしれません。]

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