黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(60) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第五話 小公子(一七九八年夏 ~ 一八〇二年夏  イギリス  6/9 )

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少年の名前はトムと言った。ジョージは足の裏全体を地につけることのできない右足のつま先を地につけ、できるだけ速く歩いてトムに追いつくと後ろから声をかけた。
「おい、喧嘩なら受けて立つぜ!」
トムは驚いて振り返ったが、その瞬間、相手を押し倒しても怪我をさせないことを確かめたジョージはトムに猛烈なタックルを仕掛けた。二人は廊下の床の上に転がった。周囲にはすぐに見物に集まった大勢の少年たちの人垣ができた。
「おい、今何て言った。もう一度言ってみろ。」とジョージはトムを問い詰めた。トムは口の中でもごもごと何か言ったが何も答えなかった。
「本人が目の前にいると言えないのか?」とジョージはトムを組み伏せて言った。「さあ、言え!」トムは黙っていたが、二人の喧嘩を側で観戦していた別の少年が言った。「こいつは『びっこ、びっこ、びっこのジョージ!』って言ってたぜ。」
「さあ、自分で何とか言え!そんなことを言うんだったら、これからはこそこそ隠れて言わずに僕の目の前で言え。でなければ僕の悪口は絶対に言うな。わかったか?」
これだけ言うとジョージはトムを放した。青くなって逃げ去るトムを見送った少年たちの前でジョージは仁王立ちになって全員を見回すと言った。
「今までに僕の悪口を言ったことがあるやつは出て来い。いくらでも喧嘩の相手をしてやる。いいか、僕は敵に後ろを見せないようにするためにこういう脚に生まれついているんだ。真っ直ぐな両脚に生まれついて喧嘩が怖いやつは黙っていくらでも逃げ隠れしろ。」こう言いながら両手をはたき、ズボンやシャツについた床の埃を払ったジョージを崇拝の念をもって見ながら集まった少年たちは三々五々解散した。ジョージの勇気と豪胆はまたもや語り草になった。


初夏の柔らかな日差しを浴びながら少年たちがクリケットに興じていた週末のある日、ジョージは学校に来たその日から興味を持っていたクリケットを始める潮時が来たと思った。同級生で頭も体力もジョージよりも数段劣るある少年がバットを構えているところにジョージはびっこを引きながら歩み寄るとつっけんどんに言った。「おい、バットをよこせ。」ジョージの剣幕に驚いた少年はジョージにバットを渡した。投手(ボウラー)はジョージの英雄譚を知ってか知らずか、「面白い、やってやろうじゃないか。」とでも言いたげに不敵な笑いを浮かべた。
投手の腕前を見るためにジョージは一球目はわざと外した。ジョージは二球目に狙いを定めると計算通りに球をかっとばした。球は鋭い速さでミッドオフの頭上を越えロングオフの前に転がった。
「見たか。僕は真っ直ぐな脚をした連中よりも簡単に球を打ち返すことができる。」とジョージは胸をそらせた。


夏になり、水泳が解禁になると水泳場はジョージの独壇場だった。ジョージは泳ぐことがままならずに浅瀬で水遊びに興じている少年に意地悪く水をかけてはすぐに水に潜ったり泳ぎ去ったりして仕返しをかわした。泳ぎを十分に体得している上級生と目標の地点まで速さを競って泳ぐこともあった。


夏休みでニューステッドに帰った時、ジョージはマレー老人の手引きで初めて一人で大人の馬に乗った。
「坊ちゃんは重たくなられました。鞍に持ち上げるのに骨が折れます。」と言いながらもマレーはにこやかに笑っていた。「もう少し背が高くなられれば、馬にお乗せするときの爺やの役目は終わりです。」
ジョージはマレーと共に馬でニューステッド・アベイの周囲をめぐり、すぐに駆け足で自由に馬を操ることができるようになり、馬に乗る時にだけマレーの助けを必要とすることの他は一人で馬に乗って近隣を散策することができるようになった。


ニューステッド・アベイから二マイルから四マイルほどの行けば隣家の領地との境界線があることをジョージは知っていた。隣接する領地でジョージほど若い領主を戴いている所はないとジョージは聞いていた。マレーに一人で馬に乗って遠くに行ってはいけないと言われてはいたが、ジョージは自分の領地を越えて隣の領地やそこを所有している地主がどんな生活をしているのか見てみたいと思ったジョージはトロットで馬を走らせ実りかけた耕地に水を運んだり農耕や作業用の鈍重な馬に荷車を引かせて市場にミルクを運ぶ小作人たちを隈なく観察し、ニューステッド・アベイとは比べ物にならないほど貧弱な小作人たちの家をいくつか過ぎ、終にニューステッド・アベイのような石造りではないが、頑丈な柱と急な屋根のある大きな館の前に到着した。ジョージは馬でゆっくりと館の周りを回った。人気のない館の裏にはぶらんこや鳥小屋があり、周囲には夏の花が咲いていた。さらに進むとそこは菜園になっていた。何人かの女が水を入れた桶を持って井戸と菜園の間を行き来していたがその中で、ひときわ若く、レースの飾りのついた服を着た可憐な少女にジョージは声をかけた。
「こんにちは。僕、隣のバイロン男爵です。」こう言うと少女はくすっと笑った。ジョージは何が可笑しくて少女が笑ったのかわからず当惑した。少女は水が入った桶を地面に置くと背中を真っ直ぐに伸ばしてジョージのほうを向いて言った。
「ずいぶん可愛い方がバイロン男爵になったのね。坊や、年はいくつ?」
ジョージは正直に答えるのをためらって嘘を言った。
「十四歳。」
「そう。十四歳にしては小さいのね。馬に乗って走り回っても一人では降りられないでしょう。」
「そんなことない。降りられる。」とジョージは強がった。
「降りたら一人ではまた馬に乗れないでしょう。降りたら最後、アベイまで馬を引っ張って歩いて帰らないといけないんじゃない?」
ジョージは痛いところをつかれてすぐに言葉を返せなかった。しかし、強がって言い返さないわけにはいかなかった。
「僕は寄宿学校に行っている。もう子供じゃない。」
「私も寄宿学校に行っているわ。坊や、名前は何ていうの?」
「男爵ジョージ・ゴードン・バイロン。」
「私はメアリー・アン・チョワーズ。あなたより一つ年上の十五歳よ。さあ、仕事をしなくっちゃ。」
こう言うとメアリーは桶で水を運び始めた。菜園で仕事をする他の女たちと比べメアリーは容姿も服装も際立って美しく、その他の女たちとは違う身分であるということが見ただけで明らかだった。ジョージは馬に一人で乗れないことを指摘されてくやしかったが、いつまでも一人で馬に乗れないわけではなし、一人で馬に乗れるようになったらきっと休みの度に始終この菜園にきて馬を下りて少女ともっと仲良くなることができると自分に言い聞かせた。

(読書ルームII(61) に続く)