黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(50) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第四話 青い空、青い海 (一八○九年夏 ~ 一八一一年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス  14/18)

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「まただ。処刑された人間は犬の餌食になるんだ。だからイスラム教徒は犬を嫌う。」


ホブハウスの歯の問題が解決した後、二人はスルタンの会食に招かれた。ホブハウスは光栄の極みに耐えないと言った表情で仲介してくれた領事に礼を言ったが、バイロンはスルタンの壮麗な王宮に至る街路でも王宮の内部でも終始寡黙だった。翌日、市内を二人で歩き回った後、金角湾をはさんで市街の対岸に位置する旧ジェノバ人居留区からセント・ソフィア寺院を望みながらホブハウスは終にバイロンに尋ねた。
「何を考えているんだ。」
「イリアースを思い出していた。」とバイロンが答えた。
「なぜまた・・・?」
「君はきっとこのコンスタンチノープルビザンティン帝国の壮麗な首都だった時のことを思って、時の移り変わりに感じているんだろう。僕はアガメムノンがトロイに攻め入る前のトロイの隆盛を想って悠久の時の流れの中での歴史の繰り返しを想っている。」
「何を言っているのかわからない。それにトロイという都市国家があったかどうかも確認されていない。ギリシア人の空想の中にしか存在しなかったのかもしれない。」
「都市の名前がトロイではなかったかもしれない。都市の王の名がプリアモスで皇太子の名がヘクトルではなかったのかもしれない。でもこれだけは確かだ。紀元前何世紀になるのか・・・ギリシア人が攻め込む以前に小アジアは何世紀にもわたって騎馬民族によって支配されてきた。マホメッド二世がビザンティン帝国を滅ぼすことによってこの地は再び騎馬民族のものとなったんだ。」
「じゃあ、君はビザンティン帝国滅亡に何の感慨も持たないのか?」
「感慨なんていう個人的な感情が入っていける領域ではない歴史の宿命だ。ギリシア人がトロイを陥落させ、ビザンティン帝国を築いたからこそ、ヨーロッパははるか東方から多くを学ぶことができた。でも、この地がギリシア人の手に落ちてから二千年、東ローマ帝国が千百年を経過して、騎馬民族出身のオスマン・トルコがこの地を奪還し、聖ソフィア寺院が回教寺院になった・・・それで良かったんだ。歴史の必然だ。」
エルサレムイスラム教徒の手に落ちたことも必然なのだろうか?」
「わからない。エルサレムイスラム教徒の手に落ちてからまだ千年、ユダヤ人が放浪を始めてから二千年たっていない。でも、歴史に問いかけてみることが時には必要なんだ。歴史に問いかけることのできる人間を僕らは英雄と呼ぶ。マホメッド二世は僕らとほとんど変らない若干二十一歳の時に歴史に問いかけてコンスタンチノープルを手に入れた。」とバイロンは言ってホブハウスのほうを向いた。
「僕は完成された小宇宙であるコンスタンチノープルのことよりもギリシアのことを考えている。サラミスの海戦マラトンの丘でのギリシアの勝利は、東方の専制君主に対する西方の自由と民主主義の勝利ではなかったのか?僕らが戦って得ようとしている民主主義、そしてその根幹である自由や平等、博愛といった思想は全て古代ギリシアから発している。キリスト教がヨーロッパ世界に根を下ろし、北ヨーロッパ民族の神話が色あせた後で、キリスト教の厳格な教えに対抗できるだけの魅力を保って神話の中から我々に語りかけることができるのはギリシアの神々くらいのものじゃないか。」
コンスタンチノープルを最後にホブハウスはイギリスに帰国することにした。ホブハウスにはバイロンが一年数ヶ月にも渡った卒業(グランド)旅行でこれ以上何を見たいのか、何をしたいのかわからなかった。
「君はさらに東に行くのか?エルサレムとか・・・。」とホブハウスはバイロンに尋ねた。バイロンは「わからない。」と答えた。イギリスで領地や金銭上の問題などがどう処理されているのか、全く知らせが得られないまま、バイロンコンスタンチノープルで忠実な執事のハンソンから送金だけを受け取っていた。
「さらに東に行くかどうかはわからないが、帰国する前にいろいろ考えを整理することだけは必要だ。僕はとりあえずアテネに戻る。」バイロンはこう答えた。


七月十四日、一行は往路と同じサルセット号に乗船してコンスタンチノープルを立ち、アテネからほんの三十マイルほどのキアの港で、アテネに向かうバイロンフレッチャーやギリシア語の通訳とともに下船した。ホブハウスも見送りのために下船し、最後になるかもしれないギリシアの地を踏みしめながらバイロンに抱きついた。
「元気で過ごせよ。無茶はするな。素晴らしい詩を書き上げてきっとイギリスに帰ってきて僕に見せてくれ。」
「わかった、わかった。気持ち悪いから放せよ。」
「今度いつ会えるかわからないじゃないか。もうかれこれ一年もの間ほとんど片時も離れなかったんだぜ。」
「永久におさらばじゃあるまいし。必ずイギリスに帰るんだからお利口さんにしてお土産を待っていてくれたまえ。」
「君もお利口さんで、達者で暮らせよ。」
ホブハウスはようやくバイロンを放し、思い出深いギリシアの地と親友バイロンを後にして再び軍艦サルセット号に乗船した。ホブハウスの前にはマルタ島経由の長い地中海の旅と故国イギリスが待っていた。
(読書ルームII)51) に続く)

 

 

【参考】

金角湾やセント・ソフィア寺院についてはトム・ハンクスが主演のラングドン教授を演じた「インフェルノ」でその全貌を見ることができるかもしれません。トロイの王プリアモスや文武両道の王太子ヘクトールなど、ホメロスの「イリアース」の登場人物については岩波文庫などに入っている日本語訳を読んだり「トロイのヘレン(1956)」などの映画をご覧ください。直近の作品では美人女優のダイアン・クルーガーが美の神アフロディーテに選ばれた絶世の美女ヘレン(ヘクトールの義理の妹)を演じています (https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=8879)。