黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(47) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第四話 青い空、青い海 (一八○九年夏 ~ 一八一一年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス  11/18)

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バイロン、見ろ。あれがパルナッソス山だ。」こう言ったホブハウスの指差す先をバイロンは仰いだ。一行は馬を留めた。二十一歳のバイロンと二十二歳のホブハウスが見つめる先に、学問芸術の全てを司るアポロンが、ミューズと呼ばれるそれぞれが各学問と芸術を司る九人の女神と共に住まうといわれるパルナッソス山が、二人の青春の一頁を霊気で満たすかのようにそそり立っていた。


アポロン神よ、ミューズの神々よ、この男に栄光を授けたまえ!」ホブハウスは「アポロン神のようだ」と形容されるバイロンの、イギリスにいる頃とは異なる横顔を見つめながら無言のうちに祈らずにはいられなかった。バイロンアルバニアに上陸して以来、土地の習慣に敬意を表すると言って顔を剃ったことがなかった。
「見ろ!」と今度はバイロンがパルナッソス山のほうを指さした。ホブハウスが眼をこらすと、パルナッソス山の山頂から多くの鳥が麓をさして舞い降りて来ようとしていた。
「あれは鷹の群れに違いない。」とバイロンが言った。「吉兆だ。君にも僕にも。」


十二月十五日にバイロンの一行はアポロン神の神殿で有名なデルファイを通過した。神殿は荒れ果て、かつては多数の穢れない処女の巫女が奉仕したという祭壇には捧げ物の跡もなかった。十二月二十日に一行はテーベに到着した。バイロンとホブハウスががっかりしたことにはそこには廃墟の他にテーベの過去の栄光を忍ばせるものは何もなかった。
「これがかつて、スパルタを破ってギリシア全土を制覇したテーベのなれの果てか。目ぼしいものは何もないじゃないか。アレキサンダー大王が持っていったのかな?」とホブハウスが呟いた。
「いや、自分もギリシア人でこの地を支配したアレキサンダー大王が何でもかんでも破壊したり持ち去ったりするわけがない。誰かが持ち去ったのだとしたらそれはエルギンxlvi[15]かもしれない。」
「それだったら安心だ。エルギン卿はイギリスに大切に持ち帰っているんだからな。」
「何言っているんだ。ここにあるものは全てギリシア人の財産なんだぞ。」
「しかしなあ、バイロン。」とホブハウスが言った。「僕らここまでずっと陸を旅してきて、スパルタの剣士のようなギリシア人にも、ソクラテスソフィストのような頭が切れそうなギリシア人にも一人も出会わなかったぜ。一体、彼らはどこに行ってしまったんだろう。まともなギリシア人がいないのなら、古代ギリシアの素晴らしい建築物や美術品は管理する者無しで放ったらかしになっているのと同じだ。だからこういった文化遺産の価値がわかる者が持っていって大切に保管するべきなんだ。」
「まともなギリシア人はきっといるさ。まだ出会っていないだけだよ。本来ならば彼らがイスラム教徒に脅かされずに自分たちの文化遺産を自分たちで管理するべきなんだ。」
アテネに着けば何かわかるかもしれない。」とホブハウスは答えた。


一行はクリスマスの前夜にアテネに到着した。地中海貿易の拠点であるアテネにはイギリス領事も駐在していたが、旅行客用の宿泊施設だけはなく、外国語に堪能で広い家を持つ者がアテネを訪れる外国人の世話をしていた。バイロンの一行は領事の紹介によって、イギリス人夫婦の娘としてアテネに生まれ、元の領事と結婚して寡婦となったマクリ夫人の家を紹介された。マクリ夫人には十五歳を頭に英語とギリシア語の両方を流暢に話す三人の美しい娘がいて、すぐにバイロンとホブハウスに打ち解けた。
クリスマスの後、バイロンとホブハウスはマクリ夫人の家に荷物の大半を残したまま、数日の予定でアリ・パチャの息子でペロポネソス半島の実質的な支配者になっているバリ・パチャを表敬訪問しに出かけた。バリ・パチャの参謀のほとんどがギリシア人だったが、その中でアンドレア・ロボスという男がほとんど伝説的になっている反トルコ運動の指導者コンスタンティン・リガスの話をバイロンとホブハウスに語り、ギリシア語の方言のロマイカ語で節をつけて歌われているリガスの武勇を称える歌を歌ってみせた。バイロンはリガスの話に歌にも大きな関心を示し、ロボスに頼んでギリシア文字を連ねて書き記してもらったリガスの歌をホブハウスに見せて言った。
「ほら、これがまともなギリシア人じゃなくて何なんだ。スパルタの剣士やソクラテスソフィストみたいな成りをしていなくても、ギリシア人の愛国者はちゃんといるじゃないか。」


バイロンとホブハウスがアテネに戻ると年明けから始まっていたカーニバルが最高潮に達していた。バイロンの二十二歳の誕生日、朝食が終わった後でバイロンはホブハウスに言った。
「僕の髭も今日が見納めだからな。とっくりと見ておいてくれ。」

アルバニア人の真似をして髭を生やし始めたようだが、今度は何の真似だ?」
「別に何の真似でもない。アルバニア人の真似が終わっただけだ。それから髭を剃るばかりじゃない。僕はこれから女装してカーニバルに繰り出す。何人の男が僕に言い寄るか、見てろ。」
「何を言い出すのやら・・・。」
「やきもち焼いてるんだろ。」
「僕がなぜ、どうして、誰に対してやきもちを焼くんだ。」
「君なんか、女装したって男に声かけられたりしないぜ。」
「女装なんかしないから関係ない。それより、君に言い寄る男が可哀想だ。馬鹿さ加減はほどほどにしろよ。君が強姦されそうになっても僕は助けてやらないからな。」
「やはりやきもちを焼いてるんだ。僕らはギリシアにいるんじゃないか。ローマではローマ人に、ギリシアではギリシア人に倣えだxlvii[16]。」

(読書ルームII(48) に続く)