黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(46) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第四話 青い空、青い海 (一八○九年夏 ~ 一八一一年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス  10/18)

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「これは何だ。」と言ってホブハウスはその紙片をバイロンに見せた。「趣味悪いから止めろよ。」とイオニア海パトラス沖での小競り合いの後、自分の耳に銃弾がかすった跡を見たバイロンが抱きついてきたのを思い出し、ホブハウスは批判がましい口調で言った。バイロンは耳まで真っ赤になって反論した。
「何が趣味悪いんだ。サッフォーは少女に対する熱烈な想いを詩に書いて後世にまで名を残した。僕の名前だってこの詩のせいで後世に伝わるかもしれないんだ。」
「サッフォーはまともな詩も書いたと僕は思うんだが、女が女に対して書いた恋歌だけが珍しいから口伝てで残っているんだろう。かのグーテンベルグ大先生の印刷術が一般的になっている今では、出版された君のまともな詩を評価する人間がきっと大勢現れるに違いない。その時に変な詩も一緒に混ざっていたら君の評価が台無しだ。」
「僕は変だとは思わないけどな・・・。話したことがあるだろう。大学の近くの川でエーデルトンが溺れたのを僕が助けた話。」
「もう何度も聞いた。エーデルトンは深みに向かって泳ぎ出した後で泳ぎきれなくなって水の底に足をつけようとしたか、水の深さを測るために息をつめてわざと沈むかして水底の草の蔓か何かに足をとられた。エーデルトンの姿が見えなくなったので君は無我夢中になって何か役に立つものはないかとあたりを見回し、近くにあった木の枝をひっつかんで頭から水に飛び込むとてエーデルトンの足の周りのもやもやしたものを払いのけ、その木の枝にエーデルトンをつかまらせて岸に引き上げたんだ。そうだよな。」
「それだけじゃない。引き上げた時にエーデルトンの息は止まっていた。でも心臓はかすかに動いていたから僕は口移しで息を吹き込んだり、胸を叩いたりして必死になって彼を救ったんだ。自分が体を張って救った命というものは本当にいとおしいものだぜ。」
「自分がこしらえた命と同じくらい、いとおしいのかもしれないな。」
「多分な。」
「でも、そんな話を知らない者がこの詩を読んだらただの男色趣味だとしか思わないだろう。」とホブハウスは言った。
「世の中では女の詩人よりも男の詩人のほうが多いんだから、男の詩人が男の美しさについて書かなければ、世の中、女を愛でる詩のほうがずっと多くなって不公平だろ。」とバイロンは言ったが、疲れていたのでそれ以上反論する気もないようで、ただエーデルトンに対する想いを綴った詩を反古にすると決めた紙片と一緒して脇に除けると残りの紙片をパラフィン紙に大切に包みなおした。


テペレニで豪族の長アリ・パチャが逗留していた住居はジャニナの館よりも小ぶりだったが離宮と言って差し支えないほど壮麗な趣を備えていた。到着後にバイロンとホブハウスはそれぞれ従者の控えの間つきの豪華な一室を与えられ、休養を取った翌日、すぐにアリ・パチャの「謁見」にまみえることができた。白い長い髭を生やし、アルバニアの豪華な衣裳に身を包んだアリ・パチャとの会見は通訳を介してだったが、二人はアリ・パチャの貫禄と優雅な身のこなしにすっかり魅了された。何よりもアリ・パチャは気まぐれに訪れた若い二人をイギリスからの外交使節国賓のように扱った。


「すごいな。れっきとした国際人じゃないか。マルタの総督が山賊上がりだなんて言っていたけれど、生まれついての王侯貴族みたいだ。」と会見の後でホブハウスが言った。
「彼はアルバニアのナポレオンだ。」とバイロンは言った。
「ほら、また始まった。」とホブハウスがからかった。「君は英雄や豪傑の類を全てナポレオンに例えるんだ。」
「荒涼たるピンダスとアケラシアの湖を過ぎ、アルバニアの中心を出でて、地方の強者(つわもの)のもとへとハロルドの旅は続く。血塗られた強者(つわもの)の手は人の運命を呵責なく操り、その恐るべき命令は法の外の法xliv[13]。」正面を見据えて自分の詩を唱えた後、バイロンは脇で馬を進めるホブウスに向かって言った。

「ホブハウス。力なしには人を治めることはできない。ジャニナの近くで見たように処刑された人間の腕を晒し物にすることは残酷だが、成文法であろうが、慣習法であろうが、法はないよりもあったほうがずっといい。」
一行はニコポリスを通り過ぎた。ジュリアス・シーザーの養子で帝政ローマの基礎を築いたアウグストスが、クレオパトラアントニウスの連合軍をアクチウムに破ったことを記念して「勝利の都市」と名付けたニコポリスは紀元前一世紀のアクチウムの勝利の跡をほとんど留めないほど荒れ果てていた。


「見よ!シーザーの後継ぎが賞杯を掲げた場所を。あの賞杯を掲げた手と同じく、今や都市は滅び去り、帝国の混乱は人々の嘆きに拍車をかける。神よ、なぜあなたはこのような浮き沈みを世界にもたらすのか?xlv[14]」バイロンは口ずさんだ。ホブハウスは言葉を何も発することができなかった。一行は黙って馬を進めた。アルバニアギリシアの境には険しい山があるだけで、パスポートを検閲するような入国管理の場所が特に設けられているわけではなかったがニコポリスを通過したことで、一行はすでにギリシアの領域に入ったということを知った。このあたり一帯、アルバニアギリシアマケドニア、さらにはブルガリアなどは全てオスマン・トルコの領土であり、主権はオスマン・トルコの君主に属していた。


ニコポリスからさらに南下し、漁村のミソロンギで一行はイギリス領事の歓迎を受けて憧れの国ギリシアにいるという感慨をさらに新たにし、さらに丘陵地帯や山の峠をさらに越えて南へと進んだ。底冷えのする冬のギリシアの地を進むうちに前方に雪を戴いた山が現れ、ホブハウスは手にした地図を見やるとバイロンに向かって叫んだ。

(読書ルームII(47) に続く)