黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(45) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第四話 青い空、青い海 (一八○九年夏 ~ 一八一一年秋 ポルトガル→スペイン→アルバニアギリシア→トルコ→ギリシア→イギリス  9 /18)

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「ところで、さっきから耳の端がひりひりして痛むんだ。どうなっているのか見てくれないか?」

バイロンはホブハウスの横に回り、痛みがあるという左耳を見ると大声を上げた。
「ホブハウス、耳の端のところが火傷したみたいに赤くなっている。弾丸がかすったんだ。弾丸がもう一インチ右にそれていたら君は死んでいたんだ。」こう言うとバイロンはホブハウスに抱きついた。
「お母さんの代わりにキスしてやる。」とバイロンは言った。
「いいよ。気持ち悪いからやめろよ。」
「イギリスに帰ってもお母さんにはこのことは話さないようがいいぜ。でもそしたらこの件でお母さんにキスしてもらったり抱きしめられたりはしないだろ。」

「わかった。わかった。」
「かすっただけで本当に良かった。」と言ってバイロンは今一度固く抱きしめてからホブハウスを放した。
「死んだりひどい怪我をしたりさえしなければ、冒険はないよりあったほうがいい。」とバイロンは言った。ホブハウスは耳に弾丸がかすった跡を見た時のバイロンの狂喜を薄気味悪いと思ったが、独りになった時にひりひりと痛む耳に手で触れ、正に九死に一生を得たことを実感して青ざめた。九月二十六日にスパイダー号は一次の停泊地であるペロポネソス半島パトラスに到着し、バイロンとホブハウスは憧れのギリシアの地に上陸した。船が出発するまでの半日の間、二人は草原で鹿や兎を追ったりして無心に遊んだ。

 

九月二十九日にスパイダー号は最終目的地であるアルバニア最南端の港プレベサに到着した。ここからは、バイロン、ホブハウス、フレッチャーそして現地で雇い入れた通訳の四人からなる一行は馬で土豪アリ・パチャの館があるジャニナに向かうことになった。


ジャニナに近づくにつれ、バイロンら一行は風光明媚な山々に囲まれ、湖を望み、回教寺院の塔がきらびやかに立ち並ぶ街の風景に心を躍らせた。その時、一緒に馬を進ませていたフレッチャーが道の脇を黙って指差した。バイロンとホブハウスがフレッチャーが指さした方向を見ると、そこには一本の棒が立てられ、棒の上からは人の腕がぶらさがっていた。
イスラム教国では処刑された人間の体はばらばらにされてあんなふうに見せしめのために曝しものにされるんだ。」とホブハウスが言った。一同は黙って馬を進ませた。


ジャニナのアリ・パチャの館にアリ・パチャは不在だった。アリ・パチャは軍隊を率いてアルバニア北東部で起きた反乱を鎮圧しに赴いていた。アリ・パチャの館で家来たちと西欧風に教育されているアリ・パチャの二人の幼い孫に歓待され、東欧情趣を楽しんで二人揃いのアルバニアの豪華な衣裳を購入したりした後、バイロンとホブハウスはアリ・パチャが逗留しているテペレニへと旅立った。今や、ジャニナで二人が購入した土産物を運ぶ馬や人夫だけではなく、アリ・パチャへの伝令や物資などを運ぶ大部隊となった一行は十月始めの悪天候にもめげずに山がちなアルバニアの地を進んだ。出発から数日後、折からの嵐の中でその日の中継地のジトラという村に到着したホブハウスは大部隊の三分の一がいなくなっているのに気がついた。バイロンの姿もなかった。もうすでに陽が落ちてあたりは暗くなっていた。
「たいへんだ。」とホブハウスはうろたえた。ホブハウスとは直接言葉が通じない人夫たちも仲間がはぐれたことに気が動転しているようだった。アリ・パチャの使いの者は現地の男たちに依頼し、強い雨風を押して松明を掲げ犬を連れた捜索隊が幾手かに別れて派遣された。ホブハウスは通訳の者に食事をして寝るように言われたが、食事は咽喉を通らず、寝台に横になっても眠ることはできなかった。
真夜中過ぎにバイロンら残りの一行は捜索隊に伴われて村に到着した。


「君たちよりも六時間は長くこのひどい雨風に曝されたんだぜ。」とバイロンは強がって見せた。「馬が一頭土手から落ちてさ、引き上げようとして騒いでいるうちにはぐれてしまったんだ。」バイロンは乾いた布で頭髪を拭い、乾いた衣類に着替えた後、出された食事や飲み物に手をつける前に小脇にしっかり抱えていた包みをほどいた。
「原稿だ。パラフィン紙で二重に包んであるから濡れてインクがにじんだりはしていないはずだが・・・。」こう言いながらパラフィン紙の包みから大小の多数の紙片を取り出したバイロンはそれらを眺めながら満足気なため息をついてつぶやいた。「よかった。どれも濡れたりにじんだりはしていない。」

食べ残した夕食に手をつけ始めたホブハウスはバイロンが取り出した紙片に目を奪われた。原稿を脇に置いて食事を始めたバイロンが原稿を横目で見ながら言った。
「この中には反古も一杯あるんだ。書いたものを全部取っておくとかさばるから、これからは本腰を入れてこれから書く長詩の内容を固めて余計な紙片は捨てることにする。」
食べ残した夕食をたいらげたホブハウスは一心不乱で食事を貪っているバイロンの横に置かれている紙片をめくってみた。
バイロン。今度の詩はどういった形でまとめるんだ?『イングランドの詩人とスコットランドの批評家』みたいな自由形式じゃないようだな。」
「スペンサリアンxliii[12]。」とバイロンが食事を頬張りながら答えた。「『イングランドの詩人とスコットランドの批評家』みたいに辛らつな風刺も入れて言いたい放題を言う詩じゃないんだ。もっと真剣に書きたいんだ。詩にこめられる心情が真剣なら真剣なほど、激しければ激しいほど、詩には厳格な形式が必要になると僕は思う。ちょっと思いついた気の利いたコメントやウィットなんていうのは今度の作品にはなしだ。」
「ふうん・・・。」とホブハウスは言ってさらに紙片をめくったが、一つの短い詩がホブハウスの目を引いた。その詩はバイロンのお気に入りの少年ジョン・エーデルトンの美しさを名指しで称え、少年に対するバイロンの切々とした慕情を歌ったものだった。

(読書ルームII(46) に続く)