黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(22) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第ニ話 優しき姉よ (一八一四年 ~ 一八一六年 イギリス 5/6)

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「拝啓


親愛なるバイロン卿。つい最近知ったある事実によって、私は貴殿がどう主張しようとバイロン夫人と貴殿がこれ以上は一緒には暮すことは貴殿の幸せには繋がらないと確信するに至りました。今までにアナベラが経験したという事実から鑑みて、貴殿のもとから追い立てられるようにしてシーハムに戻った彼女がもしも貴殿のもとに戻ったならば、彼女は落ち着いて生活できないどころか、こんなことを言うのはまことに遺憾なのですが、身に危険さえあるという結論に達しました。


敬具
ラルフ・ノエル・ミルバンク」

 

バイロンは即座にミルバンク卿への返事をしたためた。


「拝復
親愛なるミルバンク卿。貴殿のお手紙を拝読しました。私には何のことかわからない曖昧な非難が書かれているようで、私は困惑し、どうお答えすればいいのかわかりません。私はバイロン夫人を追い出すなどというとんでもないことをした覚えはございません。彼女は医者の勧めによって一時期、空気の悪いロンドンを避けるために赤ん坊と一緒に私の家を出たとばかり思っておりました。出立の日、彼女は私が見る限り落ち着いて楽しそうに里帰りしました。この件に関する閣下のご深慮をお願いしたく思います。


敬具
ジョージ・ゴードン・バイロン


アナベラの弁護士だというラシントン博士からは財産分与などを提案する手紙が矢継ぎ早にバイロンのもとに届けられた。ノエル・ミルバンク卿やノエル・ミルバンク夫人からも時たま、財産の内容などについて記した簡単な手紙が届けられることがあった。しかし、バイロンは肝心のアナベラからだけは一通の手紙も受け取ることができなかった。バイロンにとっては財産分与のことなど眼中にはなく、別離に関して自分に改められるような非があるならばどうにかしてそれを改めてアナベラとの関係を修復したいとしか考えていなかった。バイロンはピカデリー街の家を訪れた親友ホブハウスに苦しい胸の内を語った。


「そうか。バイロン夫人はどうしても別離の理由を語らないんだな。」とホブハウスは鎮痛な面持ちで友人の困惑を察した。
「理由さえ語ってくれれば、僕は何とかすることができると思うのだが・・・。」
「彼女はどうしようもないと判断したんだ。」
「僕にとっては身に覚えがない。正に寝耳に水だった。」
バイロンがこう言い、バイロンとホブハウスは共に長い間沈黙した。ホブハウスがやっと口を開いた。
「たった一つだけ明らかなことがある。理由はどうあれ、君とバイロン夫人との関係はもはや修復不可能なんだ。」
「どうしてそう思うんだ。彼女が理由さえ話してくれれば僕は何だってする覚悟がある。」
「彼女が理由を語らないから、君とバイロン夫人との関係は修復が不可能なんだ。」
バイロンはうつむいたまま長い間沈黙した。そして言った。
「そうか。クリュタイムネストラvi[2]、もういい。出るところに出てやる。」
「裁判か。君は世間の晒し者になりたいのか?世間はすでに君とバイロン夫人の成り行きを好奇の目で見守っている。裁判では証人が召喚されるだろう。証人が公正な内容だけを喋ると思うのか?神ならぬ人の意見というものは偏っているのが普通だ。君の最近の羽振りの良さに嫉妬しているものも多い。裁判はきっと君にとって致命的な結末しかもたらさないだろう。だからミルバンク男爵夫妻の示談を素直に受け入れたほうがいいと思う。」
「でも、少なくとも僕は赤ん坊のエイダの養育権は手に入れられるんだろう。僕が父親なんだか
ら。」
ホブハウスは黙って顔に手を当て、友人の将来を思って深いため息をついた。そして言った。
「僕は君が社会的に傷つかないようになるべくのことをするつもりだ。」
「それはどういう意味だ。僕が質問したことと関係ないじゃないか?」

バイロン。わかってほしい。バイロン夫人は母親としての本能からエイダを手放さないようあらゆる努力をするだろう。その時、君をあれほど可愛がってきたメルボルン子爵家の人々は君につくのか、それともアナベラにつくか、どちらだと思う?所詮、君はメルボルン子爵家にとっては部外者だ。一方で、アナベラの父親はメルボルン夫人の兄だ。僕が言っている意味がわかるか?」
「まさか・・・。」
「名誉を著しく傷つけられたくなかったら、何でもいいから理由をつけて、エイダをおとなしくバイロン夫人に渡すことだ。」
「しかし、そんなことをしたらそれだけで僕の名誉は傷つく。」
「だから、理由をつけてエイダをバイロン夫人に渡せばいい。」
「そんなことは僕にはできない。」
ホブハウスはこれ以上、バイロンと会話を続けることができなかった。オーガスタはバイロンとアナベラの別離について聞いた時から弟を元気づけ、できる限りの手助けをしようとピカデリー街のバイロンの家に泊まりこんでいた。ホブハウスはオーガスタにバイロンにあまり近づきすぎないよう忠告しようとも思ったが、すでにオーガスタとバイロンの通常の姉弟を超えた親密さは衆人の知るところだった。詮索好きな世間の人々はバイロンとアナベラの別離の理由を探ることにやっきになっていた。
ホブハウスの忠告は遅すぎた。気がついた時には、バイロンと夫人との離別の原因はバイロンと姉オーガスタ・リーとの近親相姦、そして東方旅行の際に得た同性愛の習慣だと世間は噂していた。噂を聞きつけたホブハウスがバイロンを尋ねた時、やはりバイロンの姉オーガスタが逗留していた。オーガスタは妊娠中の大きな腹を抱えていた。ホブハウスはオーガスタに目配せし、オーガスタは黙ってうなずいた。
バイロン。」とホブハウスは書斎にいるバイロンに声をかけた。バイロンは振り向いた。バイロンの目の前には真っ白な紙が広げられていたが、バイロンが執筆していたのではないことは明らかだった。
「君はこれから少々気をつけて生活しなければいけなくなるかもしれない。でも、人の噂なんてそんなに長持ちするものじゃない。これを見ろ。」と言ってホブハウスはポケットから紙を取り出してバイロンに見せた。「人前で喋ってはいけない内容の一覧だ。」
バイロンはその紙を手に取ってちらっと眺めてからホブハウスに返した。
「政治の話をするなとか信教の自由についても語るなとか、僕がこんな生活をやっていけると思っているのか?僕は国会議員だ。いや国会議員だった。でも全て終わった。」
「何を言っているんだ。君には輝かしい未来があってしかるべきなんだ。こんなの躓きで全てが駄目になるなんてそんなことがあっていいものか。」
「全てが駄目になったわけではない。でも僕はもう君と姉以外のイギリス人と口を聞きたくないんだ。旅に出る。旅に出ることにすればそれを理由にエイダをバイロン夫人に渡すことができる。」
ホブハウスは無言だった。バイロンは夫人との別れ話が表面化してから議会にも登院せず、所属している進歩(ホィッグ)党のパーティーに出席することもなくなっていた。
「これからホランド男爵やジャージー男爵、オックスフォード伯爵など世話になった人たちに挨拶に行く。メルボルン子爵家の人々に会うのは気が重いが、メルボルン夫人にだけは挨拶しないわけにはいかない。」
「旅に出るって、またイギリスには戻るんだろう。」
「さあ・・・。」
ホブハウスはバイロンの決意が固いことを感じた。

(読書ルームII(23) https://kawamari7.hatenablog.jp/entry/2021/08/23/201142 に続く)

 

【参考】

クリュタイムネストラアイスキュロスの悲劇「アガメムノン」に登場する夫アガメムノンを殺害する妃。 (ウィキペディア