黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(21) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第ニ話 優しき姉よ (一八一四年 ~ 一八一六年 イギリス  4/6)

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「親愛なるエスター
私は何て大きな間違いを犯してしまったのでしょう。私はBが私に相応しいと周囲に言われて自分でもそう思いこんでいただけのような気がします。何よりも、結婚というものはしなけれ
ばならないものという世間の通念にBも私も全く疑問をさしはさまなかったことが大きな間違い
でした。
Bは演劇に関心を持っています。詩で名前をなした後にはシェークスピアと肩を並べられるほどの劇作家になりたいと考えているのかもしれません。Bが詩で成功した時もそうでしたがその成功はBのものです。私のものではありません。夫の成功を、それがどんなものであれ、素直に喜べる妻を私はうらやましく思います。中には夫の仕事の中身を全く解さないのに夫の成功を喜ぶことができる妻さえいます。叔母が私にBを勧めた時、叔母は私に私ほどBの仕事を理解できる女はいないからBの成功を私ほど喜ぶことのできる女はいないと言いました。婚約時代も含めて一年以上もの間、私はBの側にいてBの成功を目の当たりにしましたが、Bと私との間の溝は深まるばかりでした。Bのほとばしる情熱は所詮私に向けられたものではありません。


私はBの成功を喜ぶ演技ならできるかもしれません。いいえ、私たちが今までしてきたことはすべて演技でした。シーハムを訪れたBの首の周りに腕を回し、頬に接吻したこと、Bが私の手を取り、一緒に海辺を歩いたこと、全てが演技でした。私もBも自分が本来何であるのか、何になろうとしているのか、何になるべきなのか考えることもなく、両親や叔母やその他私たちの周囲のいろんな人々が私とBのために書いたシナリオの登場人物を演じていただけだったのです。


マタイ伝十九章にあるとおり、ある者は母の胎内から独身者に生まれついているのです。私かBのいずれか、あるいは両方が母の胎内から独身者に生まれついているのです。Bにもわかる時が来ると思います。何か進展があったらまたお便りを差し上げます。


あなたの変らない友
アナベラ・ノエル・バイロン

 


一八一五年十二月十日、バイロン男爵夫人アン・イザベラに女児が誕生した。女児はオーガスタ・エイダと名付けられた。


アナベラは生まれたばかりの娘のエイダに無心に見入っている夫を見つめた。夫は飼っている猟犬や馬に対するような慈愛に満ちた眼差しでエイダを眺めていた。この眼差しが自分に対して注がれることをどれほど願ったことかとアナベラは思った。しかし、全ては遅すぎた。バイロンは顔を上げるとアナベラに言った。
「乳母を探さなくちゃ。二月の末頃までに。君が乳離れさせて自由になれるようにね。」
アナベラは夫が自分に乳離れさせたいのは女児しか生むことのできなかった自分に後継ぎ懐妊のための苦役をなるべく早く課したいからだと思ったv[1]。

 


「親愛なるエスター


私は生後一ヶ月になるエイダを連れてシーハムの実家に戻っています。もうロンドンのBのもとに戻ることはないでしょう。明日、使者が立ってBに私に戻る意思がないことを伝えます。


Bとの関係は全て終わったのです。Bとの一年余りの結婚生活を通じ、私はBとの関係が神が定めた関係ではなかったと確信するに至りました。全ては結婚の時の迷妄でした。私たちはわかりあえるのでしょうか。わかりあえたのかもしれません。でも、私たちはわかりあおうとしませんでした。Bは結婚という制度に安住しきって、友人たちになら惜しまない努力を私に対しては全く払ってくれませんでした。私は一年間の結婚生活で自分がBが飼っている馬や猟犬以下だと思うことがしばしばでした。私はもう耐えることができません。

 

世の多くの未婚の女たちは結婚を切望し、結婚によって生活の安定を得、当初の期待を裏切られ、結婚の中身が意味をなさなくなっても結婚という制度にしがみつきます。私はそのような欺瞞を憎みます。多くの女たちが結婚という制度によって生活の安定を得なければならないことを私は知っています。だからこそ、私のように結婚なくして生活に困らない女が結婚の本来あるべき姿を示さなくてはならないと思います。


エスター、あなたも尊厳をもって強く生きてください。エジンバラで新しい素晴らしい人生が展開することを祈っています。この手紙を受け取ったら返事をください。


あなたの変らない友
アナベラ・ノエル・バイロン
アナベラが生まれたばかりのエイダを両親に見せに行くと言って家を出た時、バイロンはアナベラがかなりの量の衣類や愛読書まで持ち出していることに気がつかなかった。しかし、アナベラがロンドン、ピカデリー街の住居を立ってから一週間もしないうちにシーハムのノエル子爵家の使者だという者が到着してバイロンにこう告げた。
バイロン夫人はもうこの家には戻られません。」
「何ですって?」とバイロンは聞き返した。
「もうすぐしたらクラーモント夫人が馬車で到着しますから、バイロン夫人の持ち物を運びやすい
ようにまとめておいていただけませんか。」と使者はバイロンに言った。クラーモント夫人という
のはアナベラの家庭教師で役割が終わった後でもアナベラの母親の話し相手としてノエル子爵家に出入りしている女性のことだった。
「アナベラが家を出たのはクラーモント夫人の差しがねだったんですか?」
「何もお答えできません。クラーモント夫人はただ、バイロン夫人の持ち物を取りに来るだけです。
彼女に尋ねても何も答えは得られないでしょう。詳しいことは弁護士経由でお願いします。」
「弁護士ですって、僕が一体何をしたと言うんです。」
「それも弁護士に聞いてください。」
使者はこう言うとアナベラの弁護士だというステファン・ラシントンと言う法学博士の連絡先をバイロンに教えた。
「あなたも弁護士に相談されたほうがいいですよ。」と使者は言って帰っていった。しばらくしてバイロンはピカデリー街の自宅を訪れたクラーモント夫人からアナベラの父ラルフ・ミルバンク卿からの手紙を受け取った。

(読書ルームII(22) に続く)