黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(19) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第ニ話 優しき姉よ (一八一四年 ~ 一八一六年 イギリス 2/6)

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一八一五年一月二日、男爵ジョージ・ゴードン・バイロン卿と男爵ラルフ・ミルバンク卿の令嬢アン・イザベラ・ミルバンク嬢はイギリス北東部の海辺の町シーハムの教会で結婚式を挙げた。新郎の側の主な出席者はバイロン卿の側からは大学時代からの友人ジョン・カム・ホブハウス、新婦の側では共に六十歳を越えた両親だった。


新婚の夜の 帳とばりが降り、結婚したばかりの夫と寝室で二人きりになるということは、アナベラにとってまだ結婚していないことを理由に今まで拒みつづけた行為を拒む理由がなくなったということを意味していた。
「だから、女数学者と寝るより下女と寝るほうがいいんだ。」と夫は言った。アナベラは何も経験しないどころか、いっそのこと何も知らないで結婚に望んだほうがよほど幸せだと思った。しかし、アナベラが婚約中にどんな誘惑や愛撫も拒みきれたのは結婚するということがどういうことなのか一応知っていたからだった。夫は本当に下女のほうが自分よりも女として上だと思っているのだろうか、とアナベラは考えたが、夫が下女を結婚相手として選ぶはずはなかった。脇で眠っている夫の整った彫りの深い顔を眺め、アナベラは眠っている夫は台座を壊されて地面に横たわっているギリシア彫刻のようにぶざまで醜いと思った。


海辺の街シーハムでバイロン旧約聖書を題材にした一連の民謡調の詩の執筆に余念がなかった。前年に出版されたトルコを舞台とした第二作「アビドスの花嫁」は、読書子を圧倒した「ハロルド卿の巡礼」の後続の作品として相応しい評価と売れ行きを見せ、版を重ねてすでに六千部が世に出ていた。しかし第三作「海賊」の人気は前作の比ではなく、出版とほぼ同時に一万部を売り尽くした。トルコを舞台とした最後の作品「レイラ」の売れ行きも好調だった。静かな海辺の町シーハムで、バイロンはすでに完結したトルコ四部作の売れ行きについては出版者からの手紙で遠くの出来事のように知るだけで、新しい作品に専念することができた。


三月になり、イングランド東北部にも旅をするのに適した気候が訪れ、「ヘブライ調」と名付けられた新しい詩集の内容がほぼ固まった頃、バイロンは新妻を連れて住み慣れたロンドンに戻り、デボシャー公爵の持ち家であるピカデリー街十三番の家を借りて住むことになった。ロンドンに移って間もなく、アナベラは夫が餌に食らいついている猟犬の前にしゃがんで猟犬を無心に眺めている様を見た。犬を見つめるバイロンの眼差しは愛情に溢れていた。アナベラはふと、婚約時代から今までに夫はあのような眼差しを今まで自分に対して注いでくれたことがあっただろうか、そしてなぜ夫はあれほどまでに動物を愛するのだろうかと考えてみた。アナベラは夫が学生時代に大学の寮で熊を飼っていたという話を誰からともなく耳にはさんでいた。「奔流のような感情を自由自在に言葉に乗せ、言葉の魔術師と言われるあの人は、言葉を理解しない動物に対してしか穏やかな愛情を抱くことができない。」とアナベラは思い、猟犬に嫉妬を覚えた。それだけではない。アナベラはバイロンの馬や、結婚式に立ち会った大学時代からの夫の友人ホブハウスにまで、バイロンが他の女性と関係しているという噂を聞いた時でさえ感じなかった嫉妬を感じた。


四月になってバイロンの異母姉オーガスタ・リーがロンドンにやってきた。四人の子供がいるオーガスタは国王ジョージ三世の妃シャーロッテの知己を得て妃の侍女として側に仕えるよう要請され、ロンドンに来ることになったが、精神を病む国王ジョージ三世から妃が隔離されて住んでいるセント・ジェームズ宮殿の近くにはしばらく家を借りることができなかった。アナベラはオーガスタに手紙を送り、職場に近い家が確保できるまでピカデリー街に一緒に住むように勧めた。


オーガスタが子供たちを連れて入居しても十分すぎるほどのゆとりがあるピカデリー街の家で、オーガスタの子供たちに対して夫が父親のように振舞うのを見てアナベラは悪い気持ちはしなかった。オーガスタは長年弟バイロンに接してきた「先輩」としてアナベラにいろいろなことを教えた。ある時オーガスタはアナベラに言った。
「ジョージを良く観察してごらんなさい。ジョージには女性と同じで毎月の周期があるのよ。時々何も書けないとこぼしてはお酒を飲んであたり散らしたかと思うと夜も昼もわきまえずに執筆に没頭することもあるわ。ジョージのたった一つの欠点は酒癖が悪いことだけれど、優しく接してあげればジョージは何でもあなたの言いなりよ。」


アナベラはオーガスタから夫の毎月の周期の話を聞いた時、明白な理由で自分自身の毎月の周期を失っていて、今までに経験したことない感覚と不安定な体調に人知れず苛立っていたところだった。アナベラは夫の周期の話を面白いと思う前になぜオーガスタがそのようなことを知っているのか、あるいはそんなことまで知るに至るほど夫のことを詳しく観察したのかが気になった。


「アナベラ、ジョージはあなたが幸せなら幸せなの。だから幸せになってちょうだい。私はあなたとジョージに幸せになってもらいたいの。」と言ったオーガスタの言葉の少なくとも後半部分には嘘いつわりはないとアナベラは思った。
(読書ルームII(20) に続く)

 

【参考】

イギリス国王ジョージ三世 (在位 1760年10 月 〜 1820年1月, 生年1738年)  (ウィキペディア)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B83%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E7%8E%8B)?wprov=sfti1

 

アメリカ独立戦争 (1775年4月 〜 1783年9月) (ウィキペディア)