黄昏のエポック - バイロン郷の夢と冒険

かわまりの読書ルーム II

【読書ルームII(119) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)5/5

 

アバディーンの街並みと仮住まいの掘立て小屋が見えるようになる前にジョージは前方のはるかかなたからこちらに向かって歩いている女の姿を見た。アグネスの夫だという騎手の男もほとんど同時にその姿を見たようだった。
「アグネスだ。」と男は言い、馬の歩調を速めた。アグネスは手を振りながら夫とジョージが乗った馬に駆け寄ってきた。アグネスの夫は馬から下り、喜びを隠し切れないと言った様子でアグネスと抱き合ってから二人同時に馬上のジョージを見上げた。
「まあ、坊ちゃん。みんな本当に心配したんですよ。神様のご加護で無事だったのね。聖書をしっかり抱えて・・・。」とアグネスは言い、エプロンの端で涙を拭った。
アグネスの若い夫は、馬にまたがったジョージはそのままにしてアグネスを馬の上に横座りに座らせ、自分は馬の前に廻した手綱を取って馬を引いた。帰りの道すがら、アグネスはバイロン夫人が受け取ったばかりの嬉しい知らせについてジョージに話した。一旦は援助を拒否したバイロン夫人の親戚の一人が、亡くなったばかりのジョージの大伯父で第五代バイロン男爵の資産について調べる手立てを持っていた。第五代バイロン男爵のいい加減な領地管理のせいで、男爵家の資産はかなり目減りしているものの、いまだ相当の価値があり、ジョージが第五代バイロン男爵の甥の子供だと証明することができ、名乗りを揚げた際に小作人たちや館の使用人たち、そして周囲の人々がその事実を受け入れるならばジョージは必ずや小公子(リトル・ロード)としてこれらの人々や領地に君臨する第六代バイロン男爵となることができると手紙の主は伝えた。そしてバイロン男爵家の資産と比べれば微々たるスコットランドからイングランドのニューステッドまでの旅費を貸す用意があるとその親戚はバイロン夫人に告げた。


それからの数日間、街の銀行に届けられた金を取りに行ったり、小屋の持ち主に申し訳ばかりの宿泊料を支払ったり、新しく子守りとしてイングランドに一緒に行くことになったアグネスの妹のメイに会ったりと、ジョージと母は目まぐるしい日を送った。そしてジョージと母、新しい子守り女のメイがイングランドに向けて出立する日が来た。アグネスは夫と一緒に三人を見送りにきた。アグネスは泣いていた。馬車が走り出し、ジョージはアグネスが「坊ちゃんに神様のご加護がありますように!」と叫ぶのを聞いた。


ジョージと母、そしてメイを乗せた馬車はひた走りに走った。グラスゴーを通った時にジョージは今までに見たことのない大きな都市の街並みに目を奪われたが、母はこの街など何でもないとジョージに言った。
「あなたはこれから、ロンドンの学校に行くかもしれないし、もっと素晴らしい外国の街を見ることができるかもしれません。」
馬車はスコットランドから逃れるかのようにひた走りに走り、三人は何度かみすぼらしい宿屋に泊まり、そして終に馬車は石造りの大きな建物へと通じるいかめしい鉄の門の前に止まった。
石造りの建物の中から人が出てくるのを見て母はジョージに言った。「メイの後ろに隠れなさい。」そして門を出て馬車の脇にまでやってきた男に向かって母はこう言った。
バイロン男爵にお目通りを願いたいのですが?」
バイロン男爵はお亡くなりになりました。」
「でも、後継ぎの方がいらっしゃるでしょう。」
「後継ぎになられるのはスコットランドに住んでいる十歳の男の子でまだこちらには到着されていません。」
ジョージとメイのほうを振り返った母は満面に笑みを浮かべていた。そしてまた馬車の窓に顔を出すと朗らかな声で叫んだ。
「ここにいるのが第六代バイロン男爵です。たった今、スコットランドから到着しました。」
ジョージと母、そしてメイは石造りの建物の中から繰り出してきた大勢の男女の使用人たちに迎えられた。こうしてジョージの小公子(リトル・ロード)としての新しい生活が始まった。

(最終話 ギリシアに死す(1824年) に続く)

 

【読書ルームII(118) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)4 /5

 

ジョージの母は日に日にむずかしくなっていった。香水屋に手紙を取りに行って戻った後、鬱々として藁布団の上に身を横たえて何もしないでいることも多くなった。ある日、母はとうとう癇癪を起こしてジョージに向かって叫んだ。
「この悪魔の子!」
ジョージは心を決めた。右足が曲がって生まれたことも、「小公子(リトル・ロード)」なる身分を得たことも、全てはジョージには何の責任もなく、天から降ってわいたことだった。ジョージにとっては「ちんば(レ イム)ロード」と言ってからかわれることも、わずかばかりの持ち物に加えて母の自尊心を奪ったと悪魔呼ばわりされることも、すべてが不当なことだった。その夜、母が寝入ったのを見届けるとジョージは小屋を出た。


月が明るい夜だった。ジョージは足が赴くまま、びっこを引きながら街とは反対側に向かって荒野を歩んだ。母が寝ている小屋が見えなくなるまで歩くとさすがに疲れて眠気が襲ってきた。ジョージは柔らかな草地を選んで聖書を枕にして眠った。


朝、目が覚めると草地につけていた体の半分がしっとりと朝露で濡れていた。慌てて起き上がって聖書を手に取ると、下になっていたほうの表紙がやはり濡れていてページの端が湿ってでこぼこになっていた。しかし、太陽が昇れば全て乾くだろうとジョージは思い、荒野を前進することにした。朝食になるものを持ってこなかったのでひもじかった。しかし、イエス・キリストもこれに耐えたのだとジョージは考え、勇気を奮った。


馬に乗った二人連れの男とすれ違い、一人が馬を止めてジョージに尋ねた。
「坊や、どこに行くの?」

ジョージは黙って前方を指差した。二人の男は腑に落ちない様子でそのまま馬を駆って去っていった。新約聖書の四つの福音書をくまなく読んだジョージはこの先待ち構えているのが悪魔の誘惑、ヨハネによる洗礼、福音の伝道、そして十字架の上での死だということを知っていた。
「僕はこの世の領地なんていらない。福音を伝えたい。そして天国に行きたい。でも、僕が伝えられる福音とは一体何なのだろう?」
ひもじい腹を抱えながらジョージは自分が伝えなければならない福音のことについてばかり考えた。福音さえ伝えられれば、十字架にかけられることなどは怖くないとジョージは思った。悪魔の誘惑などは簡単にかわすことができる自信がジョージにはあった。


太陽が高く上ったころ、馬に乗った一人の若い男が後ろから全速力で駆けより、びっこを引きながら歩いているジョージの前で馬を止めて言った。
「アグネスの亭主だ。アグネスに言われて君を連れにきた。」こう言いながら男はジョージのほうに馬を進め、ジョージに向かって手を差し伸べた。
「嘘だ。僕は行かない。」とジョージは突っぱねた。
「何言っているんだ。君は小公子(リトル・ロード)になったんだ。お母さんもお屋敷の大勢の召使いたちもみんなが君を待っているんだぞ。」
「僕は領地や召使いなんかはいらない。」
「一体、どうするつもりだったんだ。本の他には何も持たずに、町外れに向かって歩くなんて、気が狂ったとしか思えない。」
「僕は狂ってなんかいない。」
「狂っていないのなら、さあ、馬にのってアバディーンに帰ろう。お母さんとアグネスとメイが待っている。」
「嫌だ。」
「強情な子だ。じゃあいい。ここでこうして睨みあっていよう。そのうちに手分けして君を探しているお母さんかアグネスかメイのうち誰かが馬の上の僕を見つけるだろう。」
男はそのまま黙った。ジョージもそれ以上は何も言葉を発することができなかった。腹のひもじさに加えて咽喉も渇いていた。
「坊や、水を飲むか?」と言って男は水筒を投げ下ろした。ジョージは頑なに「いらない。」と言った。頭や首筋に容赦なく照りつけるスコットランドの夏の太陽を感じた頃、ジョージは立っていられなくなり、草の上に腰を下ろした。男は馬から下り、水筒を拾うと蓋を開けてジョージを抱きかかえるようにして水を飲ませた。水は冷たく甘かった。
「さあ、ジョージ。お母さんとどんな面白くないことがあったのか知らないが、お母さんは君のことを本当に心配している。アグネスもだ。だから、一緒に帰ろう。」と男は言った。
ジョージはこれ以上逆らうことはできなかった。男はジョージを軽々と抱き上げると馬のあぶみにジョージの片足をかけさせ、ジョージの腰を押し上げて馬にまたがらせた。そして自分も馬に乗ると、アバディーンの街を目指して並足で馬を進め始めた。

(読書ルームII(119)に続く)

 

【読書ルームII(117) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)3/5

 

「お帰りなさい。」とジョージとアグネスが言うと母は黙って小屋の中に入り、藁布団の上に座ってうなだれた。
「昨日の晩、思い当たるところには全部手紙を書いたと思ったけれど、二、三思いついたところがあるから手紙を書いてみます。」と母は言った。
「奥様、お昼ごはんを食べてから少し横になられたらいかがですか?とても疲れていらっしゃるようです。」とアグネスが言った。
「ええ、そうします。でもこんなところでいつまでも暮らすわけにはいかないし、気ばかり焦って・・・。」と母は苛立っていた。
「奥様、手紙の中には男爵について何か知っていることを教えてほしいとか、男爵の領地を見にいく機会があったらどんな様子なのか教えてほしいとか、そういった依頼もされたんでしょう?ハンソンさんによれば相当の領地があるんでしょう?」
「ええ、ハンソンはそう言っていました。」
「じゃあ、ジョージはお金持ちになれるでしょうね。」
「そうだといいけれど・・・。」

 

三人は黙って食事をした。アグネスと二人きりの間には聖書に関する楽しい会話がはずんだのに、母が帰ってくるなりジョージには雰囲気が重苦しく感じられた。
「私はこの子のために服を売り、宝石や家具を売り、今度は自尊心まで売っているようなものじゃありませんか・・・。この片輪の子のために・・・。この子が領地を手に入れることができないなんてことになったら、私たちは一生この小屋から出られないかもしれないわ。」と母が呟いた。母の言葉は同年輩の子供たちから投げられるどんな意地悪な言葉よりもジョージの心を深くえぐった。食事が終わるとアグネスは結婚したばかりの夫が待っている家へ帰っていった。


ジョージは午後になっても夢中で聖書のサミュエル記を読み続けたが、本から目を上げると苛立っている母が目に入り、母と一緒にいるのがわずらわしくなってきた。未来を楽天的に信じるアグネスと一緒にいるほうがよかった。ジョージはアグネスよりも母のほうが聖書の内容をよく知っているような気がしたが、母に聖書の内容について尋ねることは自分の密かな関心や知識を母に知らせることになるような気がしたので母には聖書についての質問はしないことにした。


それから数日の間、アグネスは朝になるとパンとミルクを持ってやってきて昼前になると母が昼食と夕食を買いに出かけ、母が戻ってきて三人で昼食を済ますとアグネスは帰っていった。ジョージは相変わらず聖書に没頭していた。手紙を投函してから約一週間ほどすると、今まで二階を借りて住んでいた香水屋に手紙の返事が届いていないかどうか見に行くと言って母は今までよりも長く、ジョージとアグネスを二人っきりにするようにした。最初の何日かは母は手ぶらで帰ってきた。それから、落胆して帰ってくるようになった。ジョージと母が香水屋の二階を出て街はずれの掘っ立て小屋に移ってから、スコットランドに遅い夏がやってきた。ジョージは母に、アグネスの付き添いで川に泳ぎに行ってもいいかと尋ねた。母は構わないと言った。


ジョージとアグネスが川に着くと、川で水遊びに興じていた子供たちの中でジョージを知っている何人かがジョージを指差して言った。
「ロード、ロード、ちんば(レ イム)のロード!」
「僕はちんば(レ イム)のロードじゃないぞ、小公子(リトル・ロード)だ!」とジョージは言い返した。
「ロード、ロード、ちんば(レ イム)のロード!」と子供たちはジョージを指差して唱え続けた。ジョージには他の子供たちとは境遇が変わった自分をうらやんでこのように自分をからかうのだということがわかっていた。だから、ただの「ちんば(レイム)!」と言ってからかわれた今までとは異なり、ジョージは「ぼくは敵から逃げないようにとちんば(レイムネス)を授かったんだ!」と言い返すことも、他の子供たちに泳ぎを見せびらかすことも、しかえしに水しぶきを浴びせることもできなかった。ジョージはしかたなく、アグネスを誘ってジョージをはやしたてている子供たちから離れた川の深いよどみにまで行き、冷たい水に体を浸した。その時、ジョージの頭にひらめいたものがあった。
「ロードというのはこの世に領地を持っている貴族のことじゃない。神様のことなんだ。」
ジョージは聖書の中でしばしば神様が「ロード」と呼ばれているのを知っていたが、その時まで「神」を意味する「ロード」とこれからの自分の身分である「小公子(リトル・ロード)」を結びつけて考えてみたことはなかった。
「人間の貴族がちんば(レイム)でもおかしくも何ともないけれどあの子供たちは僕が『ちんばの神様(レイム・ロード)』になったと言って騒いでいるんだ。僕は神様(ロード)の子だ。」
その日、心ゆくまで泳ぎを楽しみ、水泳の腕が昨年から全く変わっていないことを確かめたジョージは帰りがけにアグネスに言った。
「僕はもう、ここでは泳がないことにしたよ。」

翌日からジョージは今までよりも一層熱心に聖書を読み始めた。サミュエル記は上下巻ともにとっくの昔に読破していた。ジョージは今までつまらないと決めつけていた新約聖書も真剣に読み始めた。


ある日の夕暮れ時、母が夕食を整えに外出し、遅くなってから帰りたくないと言うアグネスが小屋を去った後では小屋から出てはいけないとジョージは言われていたが、陽が傾きかけた荒野をジョージは聖書を抱えてそぞろ歩いた。
ダビデは巨人のゴリアテを石を投げて倒した。タビデが巨人を倒すのに脚は必要なかった。ダビデゴリアテから逃げなかった。真っ直ぐな脚は逃げるためだけに必要なんだ。」ジョージはこう思い、聖書を側の岩の上に置くと、側にあった大きな石を抱えて力まかせに投げた。
「僕はダビデの子孫で神様(ロード)の子だ。」
ジョージは新約聖書のマタイ伝の冒頭のアブラハムからダビデに至る系譜とダビデからイエス・キリストに至る系譜をそらんじていた。そしてイエス・キリストが福音の説教や病人の治癒で活躍する以前、四十日間に渡って荒野をさまよい、粗食だけに耐え、悪魔の誘惑にうち勝ったという新約聖書の逸話もすでに繰り返し読んでいた。
「そして今、僕は荒野のはずれにいる。」とジョージは思った。

(読書ルームII(118)に続く)

 

【読書ルームII(116) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)2/5

 

翌朝、目が覚めた時には陽が高く上っていた。学校に行かなくてよくなってから数日間は目まぐるしさもてつだってジョージは学校を恋しいとは思わなかった。しかし、町外れの小屋に落ち着き、別れた友達のことが恋しくなってきたのでジョージは母に尋ねた。
「新しい学校にはここから行くの?」
「いいえ、これから旅をして、住むことになる場所で学校に行くのよ。」
ジョージはこの小屋が落ち着き場所ではないとわかってまた不安に捕われた。自分の近い未来で何が展開していくのか全く見当がつかなかった。トランクの中に忍ばせてきた数少ない玩具も友達がいなければ価値がなかった。しばらくすると、アグネスがパンと搾りたてのミルクが入った水差しを持って現われた。
「奥様、今日はどうなさるんですか?」とアグネスが尋ねた。
「夕べ書いた手紙を出してきます。誰かがお金を工面してくれるかもしれません。」
「ハンソンさんが何とかしてくださらないのかしら?」
「いいえ、ハンソンはジョージが男爵の後継ぎだということを確認しただけで、男爵にどのくらい財産があるのかわからないんです。もしかしたら借金だらけで財産なんか何もないかもしれないと言うし・・・。ジョージと私がニューステッドに到着するまではハンソンが男爵家の財産について調べるわけにもいきません。ハンソンはいわばうちの使用人の立場だからハンソンからお金を借りるわけにはいかないでしょう。ハンソンだって四人の子供と奥さんがいるし・・・。」
「じゃあ、やはり親戚しか当てにできないんですね。親戚の方の中で男爵家の財産について知っている人がいればお金を貸してくれるかもしれませんね。」
「ええ、それしか当てにできるものはありません。ニューステッドまでの旅費と宿泊料、そして万が一・・・。」
「奥様、そんなことは考えないで希望を持ってください。坊ちゃんはきっと今までよりもずっと幸せになります。私はそう信じています。二歳の時からずっとお仕えした坊ちゃんとこれから坊ちゃんにお仕えする妹のために私はそう固く信じます。」
ジョージは部屋の隅でトランクの中から取り出したおもちゃの刀を磨いていたが、母とアグネスの会話を聞いて息苦しくなってきた。
「私はこの子のために私の宝石は晴れ着や家具の一切を売り払いました。これでお金を使ってはるばるニューステッドまで行ってみてこの子が何かの間違いで小公子(リトル・ロード)ではないということがわかったら、私は一体どうすればいいのでしょう。」と母はうつむき、目の前に置かれたパンとミルクにも手をつけずに言った。
「奥様、希望を持って、神様とハンソンさんのおっしゃることを信じて、勇気を持ってください。今日手紙を出す方の中から誰かがきっとお金を都合してくださるわ。」
アグネスはこう言うと立ち上がり、持ってきたコップについだミルクとパンがのった皿をジョージの傍らに置いた。トランクを重ねただけの、ただでさえ狭い仮ごしらえの机の上には郵便局に持っていくばかりになっている封書が並べられたままだった。
三人は黙って朝食を食べた。少ない朝食を終えると母は立ち上がって手紙を出しに行くと言った。ジョージはアグネスと一緒に薄暗い小屋の中から外に出て、ジョージはたった一冊手元に残った本である聖書を読み始め、アグネスはバスケットから縫い物を取り出して針仕事に精を出した。
ジョージは教会の牧師の仕事というものはは聖書の中から説教じみたつまらない箇所だけを抜き出して語ることだと思っていた。
「人はパンのみにて生きるものにはあらず。」「隣人を愛せ。」「父母を敬え。」このような教えをジョージは物心ついた頃から母やアグネスに連れられて行った教会でいやというほど聞かされていたが、八歳の時に旧約聖書の創世記を読み、天地創造ノアの箱舟の話の迫力に圧倒された。牧師さんの説教は普通の人は放って置けばつまらない箇所を読み飛ばすからかもしれないとジョージは思った。しかし、聖書をお祈りかまじないの道具と考えているらしいアグネスのような人間は一体、聖書の面白さをわかって読んでいるのだろうかとジョージは思い、隣で縫い物をしているアグネスに尋ねてみた。

「ねえ、アグネスは聖書の中の面白い話を何か知っている?」
「知っていますとも。」とアグネスは答えた。
「坊ちゃんはノアの箱舟はもうお読みになりましたか?」
「読んだ。」
「じゃあ、エバが蛇に誘惑される話もバベルの塔の話もお読みになったのね。」
「読んだ。」
「じゃあ、モーゼがイスラエルの民を連れてエジプトから逃れる話は?」
出エジプト記だろ。読んだよ。創世記と出エジプト記を読んだけれどレビ記になったら神様の命令ばかりでつまらないから止めた。あとは、誰かが面白いと言ったところだけ読んだ。」
「まあ、坊ちゃんはまだ十歳なのに賢いのね。サムソンとデリラの話はお読みになりましたか?」
「読んだ。師士記だよね。」
「ヨナが魚の腹の中で暮らす話は?」
「読んだ。」
「坊ちゃんにはかなわないわ。イスラエルの美少女エスターが異教徒の女王になってイスラエルの民を救う話は?」
「読んでない。」
「男の子だから興味がないのね。ダビデが巨人のゴリアテを倒す話は?」
「まだ。」
「じゃあ、是非お読みなさい。サミュエル記ですよ。」
ジョージはアグネスに言われたとおりに聖書のサミュエル記を広げるとむさぼり読んだ。


ジョージと母が越してきた小屋や住居と呼べるような場所ではなかった。ジョージには街のはずれの荒野との境になぜこんな小屋が建っているのかさえわからなかった。最初の夜、ジョージが母に用を足したいと言ったら、母は「男の子はいいわね。どこででも用が足せるから。」と言った。
この言葉を聞いてジョージはどうすればいいのかがすぐにわかった。そして、ジョージはアグネスにもまた同じことを聞かなければならなくなった。アグネスは黙ってジョージを小屋の裏に連れていくと低い囲いのある場所を示した。ジョージはこのような場所で用を足すのは初めてだったが、人から見られることもなく、囲いから見え隠れしている頭を見れば誰でも遠慮して入り口の粗末な扉を開けてズボンを下ろしている自分の様を見たりはしないだろうと思った。そうこうしているうちに母が昼食を携えて戻ってきた。

(読書ルームII(117)に続く)

 

【読書ルームII(115) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)1/5


さるほどに、一人の「天使」の目に見えぬ加護のおかげで
この廃嫡の「少年」は太陽の光に酔って生きつづけ
その飲むものは悉く、その食ふものは悉く、
朱金の色の神酒と化り、不老長寿の御饌となる。
風を相手にふざけたり、雲を相手に語ったり、
「十字架の道」歌ひつつ恍惚したり
森の小鳥をそのままに浮かれはしゃぐ彼を見てこの巡礼に
付き添ひの「精霊」は涙にむせぶ。
ボードレール悪の華」より「祝祷」堀口大学

 

ジョージにはわからないことがあった。ある日、学校から家に帰ると、居間のテーブルの脇で母が泣いていた。母の目の前には広げられた手紙があった。側に立っていた女中のアグネスが帰ってきたジョージに気づき、ジョージのほうに歩み寄るとジョージを抱きしめた。母は顔を上げた。
「ジョージ、おめでとう。あなたは小公子(リトル・ロード)になったのよ。私は結婚しているからあなたと一緒にイングランドに行くことはできません。だから妹のメイが私に替わって坊ちゃんのお世話をすることになります。私はここで坊ちゃんの幸福をいつでも心からお祈りします。」こう言ってアグネスはジョージを放すと涙を拭った。ジョージには小公子(リトル・ロード)なるものが何なのかわからなかった。母は立ち上がって涙を拭うとジョージに言った。
「明日から学校に行かなくてもいいのよ。小公子(リトル・ロード)になるための準備があるから。明日は先生にお別れのご挨拶をしに学校にいきましょうね。」


ジョージは学校での成績は入学した時からいつでも一番だったが、最近、「びっこ」あるいは「ちんば」と言って自分をからかう子供を喧嘩でぎゅうの音も出ないほど痛めつけ、昨年の夏に覚えた泳ぎにこの夏にはもっと磨きをかけて他の子供たちを抜きん出てやろうと考えていたところだったので、今いる学校を止めたくはなかった。
「もう、ずっと学校に行かないの。」とジョージが母に尋ねると、母は「いいえ、お引越ししたら、もっといい学校に行くのよ。あなたのことを『びっこ』と言ってからかうような悪い子供のいない学校にね。」
翌日、ジョージは母に連れられて学校に行った。校長に向かって母が何かを説明すると校長はジョージをじろりと睨んでこう言った。
「この子が小公子(リトル・ロード)にねえ。」


家に戻ると母はトランクにジョージの服をつめ始めた。自分の服もトランクにつめた。洋服箪笥の中から刺繍のあるきらびやかな服を取り出し、母はため息をつきながらそれを胸に当てた。そして、その服を丁寧にたたむとトランクの脇に置いた。ジョージは遊びに行ってもいいかと母に尋ねたが、母は「家で遊びなさい。」と言った。大きな男たちが香水屋の二階にあるジョージと母の部屋に出入りし、家具などを次々と運び出していった。ジョージはしかたなく、好きだった安楽椅子がなくなった後の床に寝そべって本を読んだ。

 

家の中の家具は日に日に減っていった。ジョージが「小公子(リトル・ロード)になった。」とアグネスに言われてから一週間立つと、家の中にはベッドと食卓以外にはほとんど何も残っていなかった。ジョージが好きだった物語の本も消えうせ、聖書だけが残された。
「明日、ベッドと食卓を取りに人が来ます。そしたら別の家に引越します。」と母が言った。
翌日、母が言ったとおりに数人の男が家を訪れ、ジョージが物心ついてから母と一緒に住んでいた家には本当に空になった。ジョージは母に連れられ、家の外で待っていたアグネスと一緒に馬車に乗り込んだ。聖書を抱えているジョージを見てアグネスが言った。
「信心深い子だこと。」
ジョージが聖書を抱えているのは信心深いからではなく、これが唯一残された本だったからだった。ジョージは八歳の時に、教会の牧師が演壇の上で広げて説教の元にする聖書には数知れない冒険物語や不思議な物語が隠されているということを発見した。なぜ、牧師がそのような面白い話をせず、教訓の材料としてしか聖書に触れないのか、ジョージにはその理由がわからなかった。牧師は本が読めないみじめな人々に対して面白い話を隠しているのではないかとさえジョージは思っていた。ジョージは母やアグネスが聖書に触れる時の態度から、母やアグネスは聖書をまじないの道具だと思っているのではないかと思った。ジョージにとって、聖書は空想の材料がつまっている宝の箱だった。
ジョージと母とアグネスが乗った馬車は見慣れたアバディーンcii[1]の街中を通り抜け、いつしか街外れに来ていた。三人はそこで馬車を降りた。
「さあ、ここが私たちがこれからしばらくの間、住む場所です。」と母が言って指差したその場所
はジョージが街中で一度も見たことのないようなみすぼらしい小屋だった。母が入り口の扉を押す
と扉はきしんだ音を立てて開いた。
「ここにはテーブルもベッドもないのよ。今日からしばらくの間、私たちは藁布団で寝ます。」と母がジョージに言った。そして母はアグネスに向かって言った。
「もうしばらくの間だけだけれど、ジョージをよろしくね。私はまだ訪ねないといけないところがいっぱいあります。このままでは旅立つことはできません。」
「ええ、坊ちゃんとお別れするのはつらいですが、坊ちゃんのためです。最後だと思って一生懸命お仕えします。」とアグネスは答えた。
ジョージには母とアグネスとの会話の意味がわからなかった。「小公子(リトル・ロード)になった。」と言われてなぜ、学校を止めてこのようなみすぼらしい小屋で過ごすことになったのかもわからなかった。
小公子(リトル・ロード)の意味さえ、それが良いものなのか、良くないものなのかもわからなかった。
その夜、母はトランクを二つ重ねた仮ごしらえの書き物机の上で、蝋燭の明かりを便りに手紙を書いた。五通は書いただろうとジョージは思った。藁布団から漂うほのかな匂いは心地よかったが、ちくちくする感触にすぐには慣れることができず、ジョージはとうとう母が最後の手紙に封をし、部屋の反対側の藁布団に横になるまで薄目を開けて母を見つめ続けた。

(読書ルームII(116)に続く)

 

【読書ルームII(114) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 17/17)

 

翌日、ヴィアレッギオ近辺の漁民たちが、かつては詩人パーシー・ビッシュ・シェリーだった、その見るもおぞましい物体を麻布でくるみ、ボートに乗せて悲劇の結末を確かめようと人々が集まった場所まで運んできた時、その集団の中にバイロンの姿はなかった。人々はウィリアムズの時と同じく、頭蓋骨鑑定の専門家であるバイロンシェリーの遺体を確認することを期待していたのだが、香油をしみ込ませた布で口を覆った捜索者たちは姿を消したバイロンのことは諦め、朽ちかけた肉体以外の衣服などから遺体の身元を特定する手がかりを探そうとした。トレローニーが遺体の上着のポケットを探って小冊子をとりだした。潮に濡れて開くこともままならないその書籍の著者はジョン・キーツ、書籍の題は「レーミア」だった。英語の詩集をポケットに入れて持ち歩く人間はシェリー以外にはあり得ない、ということで人々の意見は一致した。遺体はウィリアムズと同様、火葬に附されることになった。


この頃、バイロンは河口の向こう側のかなたに停泊しているボリバル号を目指して泳いでいた。腰に巻いた布がほどけそうだったが気にも留めなかった。腰布がほどけて生まれたままの姿になってもボリバル号にたどり着けば替わりになるものが何かある、また何もなければ帆布がある、とバイロンは思った。


「一八一六年の夏、レマン湖畔でシェリーに泳ぎを教えておくべきだった。」バイロンは思った。もう何度目になるかわからなかった。「空気の妖精のようなあの男は水を怖がっていた。だからヨットなどに金を使うべきではなかったのだ・・・。」この考えももう数え切れないほどの回数、バイロンの心中に浮かび、そして消えていった。
「思えばヨットの『ドン・ファン』という名前も不吉だった。トレローニーがヨットの楽しさについて語った時、シェリーは『僕が船を所有したら閣下の作品の名前をつけたいんですが、いいですか?』と尋ねた。『ドン・ファン』という名前だけはやめてくれ。』と言ったらシェリーはすぐに『だったら、僕が大好きなシェークスピアテンペストにちなんで、空気の妖精エアリエルを船の名前にするかもしれません。』と言った。シェリーが業者に名前の変更を伝えたのに船腹に『ドン・ファン』という名前が書かれたままヨットが届けられたのも、すべてが悪い予兆だった・・・。」


バイロンは無我夢中で泳いだ。頭を水から出して薄暮の中に霞む入り江の向こう岸を仰いだり温度を失いかけている海水に頭をつけたりする平泳ぎの動作を繰り返しながら、バイロンの頭の中は熱く混乱していた。やがて、太陽が水平線の彼方に沈む頃、バイロンは目の前の景色がぼやけて見えるのはあたりを包む夕闇のせいなのか、それとも熱を帯びた頭から両眼を通って流れ出る涙のせいなのか、自分でもわからないまま、ただひたすら泳いでいた。

(「第九話 スコットランドの荒野にて(一七九八年 イギリス)」に続く)

 

【読書ルームII(113) 黄昏のエポック- バイロン郷の夢と冒険】

(第八話 暴風雨 (一八一八年 ~ 一八二二年 イタリア 16/17 )

 

テレサの馬車がピサとリヴォルノの間十マイルを並み足の速さで進み、リヴォルノ郊外のバイロンの別荘に三人の女と従者たちが到着した時、あたりはもう真っ暗な闇に包まれていたが、別荘の中にバイロンの姿はなかった。もちろん、シェリーとウィリアムズの姿もなかった。


夜がさらに更け、バイロンが従者を連れて戻ってきた。バイロンテレサと一緒にメアリーとジェーンが来ているのを見るとがっくりと肩を落としてうなだれた。
「閣下(ロード)!」とメアリーはテレサが側にいる時の常とは異り、英語で叫んでいた。

「メアリー、ちょっと用があってリヴォルノまで行ってきたんだ。それだけだ。」とバイロンも英語で答えた。
「それだけではないんでしょう?パーシーは?エドワードは?」
「役所に行って私のスクーナー船を沖に出す許可をもらってきた。それから、水夫を三人雇ってきた。それだけだ。」
「その理由を聞かせてください。」と今度はジェーンが詰め寄った。


バイロンはその日の昼過ぎ、埠頭まで散歩に行った際、船が遭難したらしいと地元の漁師が噂しているのを耳にしていた。漁師に詰め寄ってそう思った理由を聞きただすと、その漁師は漁に出た時に沖でリヴォルノでしか手に入れることのできない食料品の木箱が海に浮いているのを見たと言った。それを聞くなり、もしやとの予感を得たバイロンは、直ちに従者を連れてボリバル号の航行の許可を得るためにリヴォルノの役所へと急いだ。


「約束する。明日、きっとパーシーとエドワードを見つけ出す。もしかしたら、船の操作を誤って、沖の島に流れついているのかもしれない。さあメアリー、もう寝なさい。」バイロンはこう言うと、流産で大量の血を失ったばかりのメアリーの蒼白い額に接吻した。


翌朝、シェリーとウィリアムズの消息の伝言がピサのリー・ハントのところに送られ、驚いたハントがテレサの従者と共に馬で駆けつけた時、トスカナ沿岸をリヴォルノシェリーの別荘があるレリチの間に限って、事件解決の目的でのみ航行することを許されたボリバル号は、バイロンと三人の水夫、二人の従者を乗せてすでに出帆していた。


トスカナの沿岸を航行しながら、バイロンは軍艦を指揮する提督のように望遠鏡を手にし、岸にシェリーやウィリアムズの手がかりになるものはないかどうか隈なく探索した。何箇所かで船を陸につけて地元の住民にも尋ねた。時には二人が沖を漂流しているのではないかと、沖にまで望遠鏡を向けた。最初の日には漂流物以外の手がかりは得られず、バイロンは心配して待つメアリーとジェーン、それにリー・ハントとテレサを加えた人々が待つリヴォルノ郊外の別荘に空しく戻った。


バイロンは大家族を抱えて新居にまだ落ち着いていないハント、そしていても役に立たないテレサをピサに返し、翌日、二日目の捜索に赴くボリバル号にメアリーとジェーンを乗せてレリチの別荘に返した。この往復でも二人の手がかりは得られず、バイロンは雇い入れた三人の水夫をリヴォルノに返した。


焦燥ばかりつのるバイロンの元に手がかりになる情報が入ったのはそれから五日後だった。元海賊だったと吹聴している男トレローニーもピサから駆けつけ、成り行きに気をもんでいた。リヴォルノの北方で漁師をしている男が「身元不明の水死体がヴィアレッギオの辺鄙な浜辺に打ち上げられて当局の手によって直ちに浜辺に土葬にされた。」と知らせにきた。バイロンはすぐにでも水夫を雇い直してボリバル号でその場所を見に行きたいと言ったが、地元の事情に詳しい漁師は二つの理由で反対した。
「一つには、すごく辺鄙な場所な上に埋めた場所がはっきりしないんでさあ。もう一つは、お役所の許可がねえと一度埋めた死人を掘り返すなんてことはできないんでさあ。」とその男は訛のひどいトスカナ方言で言った。


しかしバイロンはトレローニー、そして雇いなおした水夫と共にボリバル号でとりあえず沿岸の様子を調べた。そして、消息を絶った二人のものらしい遺体が埋められたというヴィアレッギオの浜辺とリヴェルノのちょうど中間に位置し、馬で行くのにも便利なセルキオ河の河口を落ち合う場所にするという伝言をリー・ハントに送った。
「もし不幸にして彼らだったら、海賊のやり方で手厚く弔うことにしましょう。」とトレローニーが沈痛な表情を浮かべて言い、バイロン不本意ながらうなずいた。シェリーとウィリアムズの消息が途絶えてからすでに二週間近くが経過していた。


浜に打ち上げられた、一旦は土葬にされた水死体を掘り出す許可を得、場所を探し当て、漁師の有志をつのって身の毛がよだつような作業が行われたのはそれからさらに三週間たってからだった。


麻布にくるまれ、ボートに乗せられた遺体は漁師たちが漕ぐ別のボートに曳かれてセルキオ河の河口に到着した。誰もがかつては人間だったその物体に近寄るのをためらった。しかし、バイロンは若い頃に頭蓋骨を収集して生前の有様を再現するという奇妙な趣味に耽ったことがあり、気味悪さを我慢して死体に近寄ることができた。バイロンは香油をしみ込ませた布で口と鼻を覆うと遺体識別をかって出た。バイロンはへらで遺体の口をこじあけ、歯の特徴から遺体はエドワード・ウィリアムズのものだと断定した。ウィリアムズの遺体は生前の姿を留めないほど痛んでいたが、バイロンはその首に巻かれて全く破れていない絹のスカーフを、結び目をナイフで切って遺体から取り去り、妻ジェーンへ証拠と形見として渡すことにした。遺体はトレローニーの指示で、海賊を葬る時の儀式に従って河口の砂地で火葬にされた。

(続く)

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